なぜ人を殺してはいけないのか? なぜ自殺をしてはいけないのか?


STAP細胞論文の責任著者だった理研の笹井芳樹副センター長が自殺しました。実に痛ましい限りです。客観的にみて、これは理研の責任です。もっと早く笹井さんや小保方さんを処分しておくべきでした。

毎日新聞の取材では、処分が決まらない生煮えの状態に置かれ続けた笹井さんは、精神的に行き詰まっていたといいます。改革委の委員長を務めた岸輝雄・東京大名誉教授は、次のように憤っています。

改革委の提言に沿って、理研が速やかに笹井副センター長を交代させ、研究に専念させていれば、不幸な結果にならなかったのではないか。優秀なリーダーだったからこそ理研も手放したくなかったのだろうが、提言への対応を遅らせたことは問題だ。

世界の再生医療研究をリードしていた有能な科学者の自殺は、人類にとっても大きな損失です。もし理研が、組織の利益を優先して処分を遅らせたのだとしたら、その罪は大きいです。

でも、世界をリードするような有能な科学者なのに、なぜ自殺などという選択肢を選んでしまうのでしょうか。論理的に考えたら、まだまだ有意義な人生を送ることができると分かるはずです。今後もその能力を生かして、人類に貢献することができますし、科学者としての夢や理想を実現することもできたはずです。有能な科学者なのですから、それくらいの論理的な思考は可能だったはずです。

つまり、自殺は論理的に行うものではないということです。非論理的なのです。別の言い方をするならば、論理より感情を優先した行為なのです。人間は感情の動物でもありますので、論理的な思考を生業としている科学者であっても、感情が優先されてしまうことがあるのでしょう。

各宗教が教える、殺人や自殺がいけない理由は明確です

鶏鳴教会
「人を殺してはいけない」とか「自殺をしてはいけない」ということに対して、「なぜ?」と問われることがあります。悲惨な殺人事件があったり、著名人が自殺をしたりすると、しばしば話題になる命題です。そして、俗人たちには決して明確な解答が得られない命題です。

そのような中で、さまざまな宗教では明確な解答を示しています。これは、あくまでもその宗教を信じる人にとって明確なのであって、その宗教を信じない人にとっては単なる創作にしか聞こえません。それでも、明確に「こうだ!」と言い切れる点は強みに違いありません。

たいていの宗教では、その答えに共通する部分があります。それは、殺人や自殺をしたら死後の世界で苦しむというものです。

死後の世界が、この世と別にあるという宗教の場合、殺人者はいわゆる地獄に行って被害者から永遠に痛め続けられるといいます。自殺者の場合は、神さまによって与えられた命を粗末した罪で、根っこの生えた植物のようになって、地獄で1歩も動けず永遠にジッとしているといいます。

死後の世界とは、この世と別にあるのではなく、再びこの世に変わる(輪廻転生といいます)と教える宗教もあります。この場合、前世の罪を償う人生を送るといいます。端的に言ってしまえば、人に苦しみを与えた前世だったら、今世では人から苦しみを受けるというわけです。

もちろん、各宗教によって細部の説明は異なりますが、概ね「死んだら消えてなくなるのではなく、その後も人生が続くんだよ。そして、その後の人生は、今の人生から影響を受けるんだよ。だから命を大切にして善行を積みましょうね。殺人や自殺をしてはいけないよ」と教えているといえます。

論理的には極めて明快です。宗教は非論理的なものだと勘違いされていますが、そうではないのです。そもそも論理とは、ある出発点があって、そこから展開していくものです。宗教ではその最初の出発点が、神さまだったり、死後の世界だったり、永遠の命だったりするに過ぎないのです。

しかし、宗教が堂々と語る資格はありません

トリニティ教会
しかし、そのような明確な解答を提示する宗教にも、限界があることは周知のことです。一様に命の尊さを教える宗教が、実はドロドロとした戦争の歴史を綴ってきたことは紛れもない事実です。今も紛争が絶えない中東が良い例です。ユダヤ教、キリスト教、イスラム教の三つ巴の争いが、もう2000年以上も続いているのです。

ぼくらは、赤十字社といえば平和の象徴のように思いますが、イスラム教圏では十字架は悪魔に近い存在です。聖地奪還を目指したキリスト教が、十字軍の遠征で何度もイスラム教徒を苦しめ、多くの人を殺害したからです。だからイスラム教圏では赤十字社とは言わず、同じ組織であるにも関わらず赤新月社と言うのです。

アメリカの大統領就任式では、大統領が聖書に手を置いて宣誓します。それほどキリスト教圏でも聖書は神聖なものとして扱われます。しかし、聖書を読んだことがある人はお分かりかと思いますが、実に多くの人が聖書の中で殺されています。一例を挙げれば、こんな感じです。

主はヨシュアに言われた。『おそれてはならない。おののいてはならない。全軍隊を引き連れてアイに攻め上りなさい。アイの王も民も周辺の土地もあなたの手に渡す。』(中略)その日の敵の死者は男女合わせて12,000人、アイの全住民であった。ヨシュアはアイの住民をことごとく滅ぼし尽くすまで投げ槍を差し伸べた手を引っ込めなかった。(ヨシュア記8章1~26節)

たった1日で、男女12,000人、町の全住民を槍で突き殺すのです。どう考えても大量虐殺です。これが「神の側の民の栄光の歴史」として、聖書では堂々と綴られているのです。ちなみに聖書の中では、上記のヨシュア記に限らず、神さま(主)が命じて殺人をするシーンがとても多いのです。

ですから、この「神さまによる殺人の被害者」を全部数えた人がいます。それによると、明記されている人数だけを合計しても2,821,364人(約300万人)いるそうです。明記されていないもの(例えば町全体とか)を予測して合計すれば、約2,500万人にはなるだろうということです。

面白いことに(面白くはないか)、同じ聖書の中でサタン(悪魔)が殺人をした数は、たった10人ということです。サタンよりも神さまのほうが多くの人を殺しているとは、なんとも奇妙な話でもあります。

このように、殺人描写オンパレードの聖書が、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教の正典となっていることも、また事実なのです。ですから、殺人や自殺がいけない理由を、宗教が堂々と語る資格はあまりないように感じます。

神さまや死後の世界は、ラプラス変換みたいなものです

眼鏡と文具
殺人がいけないことを子どもに教える場合に、しばしば「自分が殺されたら嫌でしょう。だから他人も殺してはいけないのよ」という説明がなされます。これはとても危険です。なぜなら、「自分が殺されたければ、他人を殺してもいいのか」という発想をするケースもあるからです。現実として、「死刑になりたかった」という動機で殺人をした者は、決して少なくないです。

自殺がいけないことを子どもに教える場合には、しばしば「君たちを愛している家族が悲しむでしょう」という説明がなされます。しかし、これは根本的な解答にはなっていません。「では、なぜ家族を悲しませたらいけないのか?」という新たな問題を生むからです。問題がすり替わっただけです。

もちろん、ぼくのような俗人に、このような高尚な問題の解答を提示することなどできません。ですから子どもたちが小さい頃は、明確な解答をしてくれる宗教の教えを拝借して説明していました。小さい頃は「こうだ!」と明確に教えたほうがいいと思うのです。「神さまがいるんだから、駄目なものは駄目なの」ということです。

今はもう、子どもたちも大きくなりましたから、そんな説明では通用しません。「本当に神さまなんているの? だったらどうして世の中に悪いことが起きるの?」といいます。「死後の世界っていうけれど、パパは行ったことがあるの? 全然科学的じゃないよ」などと突っ込まれます。

ですから、最近では「神さまや死後の世界っていうのは、ラプラス変換みたいなものなんだ」と答えるようにしています。ラプラス変換とは、「難しい微分方程式を、簡単な足し算・引き算・掛け算・割り算に変換する」という数学の手法です。端的に言えば、難しい問題を、簡単なものに置き換えて答えを出すというものです。

ラプラス変換の講義をするだけでも、子どもたちの数学力を養えるので意義があります。まさに一石二鳥です。

神さまや死後の世界というものは、先人たちが考え出した「人生のラプラス変換」みたいなものだと思うのです。「なぜ殺人や自殺がいけないのか?」という方程式は難し過ぎて、まともに取り組んでも答えが得られません。だから、簡単なものに変換して答えを出したのです。

数学のラプラス変換では、そうやって出した答えは数学的に正しいものになります。でも人生のラプラス変換は、正しい答えを導き出すかどうかは分かりません。それでも、全く解けないで悶々としているよりはマシだろう、ということです。

もし、ラプラス変換が「姑息で嫌だ」と言うのであれば、難しいままで方程式を解くしかありません。それはそれでよろしいと思います。宗教的な考え方(つまりラプラス変換)を一切用いず、全てにおいて科学的に考えてみることも意義があると思います。

名だたる宗教が戦争や殺人を根絶できず、世界をリードするほど有能な科学者でさえ自殺をしてしまうのです。宗教も科学も、この問題においては十分な力を発揮していないということです。だからこそ、宗教と科学の両方の立場から、もっと真剣に、そして謙虚に考えてみることが必要なのだと思うのです。


なぜ人を殺してはいけないのか? なぜ自殺をしてはいけないのか?” へのコメントが 7 点あります

  1. 笹井さんの自殺には、私も痛ましい衝撃を受けました。
    殺人や自殺を防ぐ本質問題は、かなり根が深く奥も広いですね。
    宗教も醜い部分があり形骸化しているので、お天道様や霊魂の存在を持ち出しても決め手には欠けると思います。
    生命現象は、突き詰めると本当に神秘的なものだと感じます。
    論理的に思考する科学的手段と心情がなごむ情緒的側面、そのバランスと調和を育むのが何より重要な気がします。

    • 何ごともバランスが大切ですよね。そういう意味では、何ごとにおいても常に対極の立場にある事柄を意識することが大切ですね。

  2. 笹井副センター長の自殺によって、再生医療の研究が大きく遅れる。
    惜しい人を亡くした…と言われています。
    確かに、将来のノーベル賞候補とも言われ、再生医療の分野をリードしてきた有能な科学者の死は、その分野に大きな影響を与えることも事実でしょう。
    では、私みたいな普通のサラリーマンの死はどうってことないのでしょうか?

    以前、20人程の子供達を前に「人の命はとっても重いけど、じゃぁ誰の命が一番重いと思う」と聞いてみたことがあります。
    「自分のいのちぃ~!」と答える子供もいましたが、ほとんどの子が「みんな同じ重さだよ」…と。
    子供達はよく分かっているなぁ、と思ったものです。

    ある番組でコメンテーターが「笹井さんの自殺が良いのか悪いのかの議論は別にして、これで彼は苦しみから解放されてやっと楽になれたと思う。」と発言していました。
    それに対して、何も言えない司会者。。。
    もし、それを観ていた子供(もちろん大人でも)が一人でも「自殺をすることで、楽になることもあるのかなぁ?」と感じたとしたらどうなんだろう…と、私は
    ゾッとしました。
    どんなことがあっても、自分で死を選んではいけない、自殺しちゃぁダメなんだ、とはっきりと言い続けなければいけないのではないでしょうか?
    なにか、惜しい命を亡くしたというより、惜しい人材を亡くしたという報道の印象を受けるのですが。

    先進国の一つとして発展し豊かになった日本で、年間3万人以上が自殺している現実。
    誰もが幸せを求めているはずなのに、自分の子供達の未来は…日本はこれからどこに向かっていくのだろうと心配です。

    • テレビに出演するコメンテイターの多くは、それが教育番組でない限り、子供の教育のために話しているという自覚はないでしょう。本当はそれではいけないのですがね。誰もが見ることのできる公共の電波で発言しているのですから。

      でもそういう自覚はなく、自分が思うことを述べているのです。逆に言えば、自分の思うことをはっきり述べてくれる人の方が、テレビのコメンテイターとしては重宝するということです。テレビの情報なんて、所詮その程度のものなのだと子どもたちに教えた方がいいと思います。

      テレビでいい加減なことを言う人間が増えるよりも、テレビの情報を真に受ける人間(メディアリテラシーがない人間)が増えることの方が、ずっと怖いです。

  3. >サタンよりも神さまのほうが多くの人を殺している
    この世で最も邪悪な悪とは、
    [悪人の自覚がある悪]ではなく、
    [自らが正義と信じて疑わない悪]ってことだね。

    神様は絶対正義、神様の意志なら仕方がない、神様の為なら何をやっても許される、神様は正義でそれを代行している自分も正義だから。

    多くの宗教が、お互いにそう思っているんだから、そりゃあ争いが無くならないよ。

    自ら正義と思っている者同士、正義対正義の争いなんだから。

  4. 嘗て「何故人を殺してはいけないのか?」という単刀直入の問に対して、大江健三郎や吉本隆明等の所謂知識人は、理窟を捏ね回しているだけで、明確な答えを出すことが出来ませんでした。実際の倫理的判断には時間的猶予はありません、即座に判断し行動しなければなりません。答えは単純です。

    「人格に背くから悪である、人格は愛(慈愛)で成り立っている。」
    「善悪の判断に迷うことがあれば、愛があるかと自問すればよい。」

    これ以上の答えはないはずです。人は法律を犯したから罰を受けるのではありません、人格を犯したから罰を受けるのです。法律は最低限のルールに過ぎません。なぜ桝添元都知事が失脚したかを考えればわかることです。彼も所謂知識人で、法に触れるようなことはしていないと主張しましたが、世論は許しませんでした。都民としては、悪いことはしない普通のことを期待したのではなく、善いことをする「人格者」を期待したのです。

    三島由紀夫は所謂知識人(リベラル)のことを「主体なき理性」と言って揶揄しました。知識人には情・意が欠落した人間失格者が多いのです。

    真に理性的な人は理性の限界を知り、その使い方を心得ている人です。

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