「素晴らしいことを言うだけの宗教者」よりも、現実的に人の役に立っている人々のほうが立派です


日本ではお盆休みの期間である8月14~18日の5日間、ローマ法王フランシスコが韓国を訪問していました。韓国では大騒ぎだったようですが、日本は静かでした。日本のマスコミに批判的なぼくも、今回ばかりはこの対応を評価します。

心の中まで干渉されたくないし、干渉してはいけません

夕焼けの海
前回も書きましたが、ぼくは基本的に「宗教が堂々と平和について語る資格はない」と思っています。もちろん、何人にも信教の自由がありますので、どんな宗教を信じても良いです。信じること自体は、心の中の問題ですので、それを批判するつもりはありません。否、心の中まで誰かに干渉されたら、人間をやっていけません。

極論すれば、「人を殺したい」と考えても、それだけでは周りの害悪にはなりません。その考えを実行に移したらいけないのです。人間は、実にいろいろなことを考える生き物ですから、どんなことを考えても、どんなことを信じても、それは許容されるべきです。

SF小説などでは、テレパスという超能力者が登場します。テレパスとは、他人の心が読める能力です。他人がどんなことを考えているのか分かってしまうというわけです。ぼくが学生時代に大好きだった筒井康隆さんの「七瀬三部作」も、このテーマを扱っています。

家族八景

七瀬ふたたび

エディプスの恋人

主人公の七瀬がテレパスです。他人の心が手に取るように分かる若い美しい女性として描かれています。ぼくら男性は、女性に対していろいろと妄想を巡らすものですが、もしその妄想が全て相手の女性に読まれていたらどうでしょうか。とてもじゃないけれど、恥ずかしくて耐えられません。そういう世界がリアルに描かれています。

学生時代に、ぞっとしながら読んだものです。「この七瀬のように、ぼくが考えていることを全てリアルに把握している他人がいたとしたら・・・」と想像しただけで、気が狂いそうになったものです。

小説の中では、強姦されそうになる七瀬が、犯人の思っていることをどんどん言葉にしていき、ピンチから逃れる場面があります。いやらしい、恥ずかしい、辛い、苦しいなどなど、自分の全ての思いを具体的な言葉にして出されてしまった犯人は、ついに心の中が真っ白になってしまい(発狂してしまい)、何も考えない人間(もう人間とは言えない存在)になってしまう・・・というシーンには、心底ぞっとしたものです。「確かに、自分の心の中を全て暴露されたら、そうなっちゃうだろうなあ」と思ったものです。

話しがそれましたが、このように人間は心の中まで干渉されたくないものですし、干渉してはいけないのです。ですから、信教の自由も保障されているわけです。カトリックの教えを信じたり、ローマ法王を崇拝したりするのも自由です。そこまでいかなくても、「偉いお方が、わざわざアジアに来てくださって慰めてくれて、ありがたや」と思うことも、また自由です。

宗教者の皆さん、頑張ってください

紺碧の海
上で、極論として「殺人について考えを巡らせても、それだけであれば害悪ではない」という主旨のことを書きました。もちろん人間は、考えてそのごとく行動することもあるので、できれば殺人なんてことは考えないほうがいいに決まっています。

でも、例えば会社などで、いじめに近いことをされたときなどに、相手を殺してしまいたいと思う瞬間もあるはずです。それでも多くの人が、実際に殺人を行わないのは、「さらに考える」ためです。「そんなことをしたら、相手は、相手の家族は、自分の家族は、どうなるか」などと考えていくのです。その結果、殺人という行為に走らず、耐えるなり、会社を辞めるなり、訴訟をするなり、違う手段を選択するのです。

同じことが、宗教にも言えると思うのです。宗教の場合は、上の殺人とは真逆のパターンです。

どんなことをしても愛して許してくださる神さまがいるとか、魂は永遠なのだとか、死んだ家族や友人はお墓に眠ってなんかいないで千の風になって大きな空を吹きわたっていますとか(歌みたいだけど・・・っていうか歌詞そのまんま)、科学では実証不可能なことを信じています。

あるいは、博愛、無償の愛、謙遜、柔和、奉仕、赦し、癒し、質素、倹約、人類は皆兄弟、世界平和実現などなど、立派なことを考えるものです。このように、何を信じ、何を考えても自由であり、その考えに干渉してはいけないです。

しかし、それだけでは・・・つまり信じて考えているだけでは、実は世の中に対して何のインパクトも与えません。殺人を考えても実行しなければ、何のインパクトも与えないことと同じです。いくら素晴らしい教えを信じていても、それに伴い行動をしていなければ、殺人妄想と本質的なところでは変わらないということです。

ローマ法王が世界の国々を訪れてミサを行ったり、苦しんでいる人に優しい言葉をかけたりすることは、行動していると言えなくもありません。しかし、ぼくにはそれほど大した行動だとも感じません。偉そうな服装をして、周囲が準備してくれた環境の良い場所で、きれいな言葉を語ることは、難しくはないからです。

カトリックに限らず、世の宗教というものは、そういう面では似たりよったりだと思います。それぞれが素晴らしいことを言うのですが(そのこと自体は否定しないし、内容は素晴らしいと思いますが)、それだけのように感じるのです。

世界では、いまだに飢餓や貧困や病気で死に行く人、戦争やテロで殺される人などなど、多くの悲しみ苦しみで満ちています。そういったことを解決してこそ、神だの愛だのと堂々と語れるのではないでしょうか。

何を信じていても、何を考えていても、何を語っても、現実世界の問題を解決して平和な世界を築いた実績がなければ、妄想やSF小説と紙一重です。宗教よりも立派なことを言う妄想家や、宗教よりも感動的なSF小説、映画、ドラマ、ゲームなどはたくさんあります。

あるいは、具体的に病気を治す薬を開発したり、貧困や飢餓をなくす技術を開発する企業など、結果で勝負する人たちもいます。「素晴らしいことを言うだけの宗教者」よりも、現実的に人の役に立っています。

これからの宗教は、その教えに基づいた実績を具体的に示していかなければ、彼らによってその地位を奪われてしまうでしょう。宗教者の皆さん、頑張ってください。


“「素晴らしいことを言うだけの宗教者」よりも、現実的に人の役に立っている人々のほうが立派です” への4件の返信

  1. 内面にある心の領域は各人特有の感じ方や思いがありますので、詮索されたりするとたまったものではありませんね。
    宗教で謳う世界観は尊いものがありますが、理想論を語るような御題目だけでは絵に描いた餅に等しいと、常々感じています。
    具体的に役立つ成果なり、身近で実体をもって現わせる内容を持たずしては説得力に欠け人を魅了できませんね。
    ビジョンと同時に地に足を着けた取り組みを心掛けたいものです。

    • 有限不実行というのが、世の中で一番信頼されませんからね。平和を説く宗教が、いつまでたっても争いごとをなくせないようでは、人心は離れるだけでしょう。

  2. 最近、読んだ本の中で「行動の伴わない精神論は害だ」といった言葉がありました。正直、ギクッとしました。本当に人の役に立とうと思ったら、心の中で考えている「良い」ことを具現化する努力も伴わないといけないですよね。学びになりました。

    • 確か阿刀田高さんの「天国への確率」という短編だったと思いますが、悪人の主人公が牧師(修行僧だったかな)に下記の説明を受ける場面があります。

      1. 生きて善行を積んで、死んだら天国があった場合
      2. 生きて善行を積んで、死んだら天国がなかった場合
      3. 生きて悪行を積んで、死んだら地獄がなかった場合
      4. 生きて悪行を積んで、死んだら地獄があった場合

      必ずどれかになるわけです。確率はどの場合も等しく4分の1。確率は同じでも、1だったらうれしいけど、3だったら最悪(永遠に苦しまないといけない)。2と3だったら、死んだら意識もなくなっちゃうから関係ない。

      結局、死んだ後の損得を考えたら、1の人生を選んだ方が得だということになります。そう考えた主人公の悪人は、それから善行をし続け、確か最後は他人のために命を犠牲にするストーリーだったと思います。

      彼は死後の世界とか天国とかを信じてたわけじゃなくて、あくまでも損得勘定で生きていた。しかし、彼によって助けられた人たちは彼を称えたのです。つまり、彼の善行の動機などは関係なく、彼の善行そのものが多くの人々を救ったという、示唆に富んだ小説でした。(昔読んだので、ディティールの違いはご容赦ください)

      宗教者やそれ類する良心家は、動機が立派なのですから、かの主人公よりも素晴らしく生きられるはずです。精神論だけ立派でも、行動がかの主人公以下なら、ぼくら一般人よりレベルが低いと思います。偉そうなことを言うだけでなので、始末が悪いです。

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