コンピューターとプロ棋士が対局する将棋の電王戦が5月22~23日に行われ、コンピューターが2戦全勝しました。来年は、あの大天才・羽生善治四冠が対戦する可能性もあるということで、楽しみです。
ぼくの長男は理系なので、電王戦について次のようにコメントしました。
「何手先まで読む(予測する)ことができるか、定石(経験的に分かっているその状況での最善策)や過去の棋譜(対局の記録)をどれだけ覚えているか、ということによって将棋の勝負は決まる。そういうことは人間よりもコンピューターのほうが得意である。だから、これからコンピューターがどんどん進歩していけば、どんな名人でも絶対に勝てなくなると思う」
長男の説を拡張して、人間vsコンピューターではなく、コンピューターvsコンピューターの対局としてみましょう。どちらのコンピューターも、何億手先までも瞬時に読むことができ、全ての定石、全ての棋譜を記憶しているとします。従って、常に最善の一手を指すことができるとします。
両コンピューターが常に最善の一手を指し続けるのですから、結果も常に同じになるはずです。ということは、この対局は「最初の手を指す前から勝敗が決まっている」ということに、なりはしないでしょうか? つまり、「対局する前から勝敗は決まっている」と言えるのではないでしょうか?
勝敗は決まっている?
将棋の勝敗が決まるまでの指し手は、何通りあるでしょうか。始まる前には駒の位置が決まっていますので、第1手(先手の最初の1手)で動かせる駒が限られています。30通りです。
第2手(後手の最初の1手)も同様に駒の位置が決まっていますので、30通りです。第1手の30通りに対して、第2手も30通りですから、第2手までに900通りの指し手があるわけです。仮に、ずっと30通りのまままで、100手目に必ず勝敗が決まるとします。そうすると、指し手の種類は、
30×30×30×・・・・・×30
と、30を100回掛け算する数になります。つまり30の100乗です。ものすごい数です。
実際の将棋は、そんなに単純ではありません。駒はいろいろ動くので、指し手の数は30通りよりも増えます。将棋界では、指し手の選択肢が最も多い局面を「最多合法手局面」と言い、593通りだということが分かっています。30通りどころではありません。従って、勝敗が決まるまでの指し手は30の100乗通りよりもはるかに多くなります。何通りになるか想像もつきません。とても「人間業」では覚えられません。
しかし、どんなに膨大な計算でも瞬時に行なってしまう超高性能のコンピューターがあれば可能となります。全ての棋譜を知っているこのコンピューターにとっては、最善の結果を完璧に予測できることになります。従って、このコンピューターが2台で将棋をすれば、実は勝負の前から結果が決まっていることになります。
話を簡単にしてみると分かりやすいです。将棋のルールをぐっと簡略化して、「相手の駒を取ったら勝ち」とし、駒の数もぐっと減らしてみましょう。3種類の簡単な将棋で最善を尽くせば、それぞれの結果は次のようになります。
A「先手必勝」。
B「後手必勝」。
C「引き分け」。
つまり、これらの勝敗は「将棋をする前から決まっている」ことになります。駒を並べ、先手と後手を決めた瞬間に、決着がついていることになるのです。
実際の将棋は、これを複雑にしたものに過ぎません。取り得る指し手の可能性は膨大な数になりますが、最善の一手は第1手にあり、駒を並べて先手と後手を決めた瞬間に決着がついていることになりそうです。
人間は到底全ての指し手の可能性を考えることも覚えることもできないので、「決まっている勝負でも、所詮人間には分からないのだから楽しくゲームができる、それで良いではないか」とも言えます。でも、初めから決まっていることを一生懸命に行うというのも、何だか虚しいと思いませんか?
宇宙は大きなビリヤード?
将棋の話を長々と述べてきましたが、むろん将棋講座を始めたいわけではありません。要は、「分からない」ということを明確にしておきたかったのです。
前回までの例から察するに、「分からない」ということは、「あまりにも複雑であり、多様であり過ぎるため、人間の頭脳では計算し尽くせない」ということのようです。もっと言うと、「人間の知らないところでは全部決まっているが、人間にはそれを把握できない」ということになりましょう。
将棋は単なるゲームだからそれでもいいとして、「実は全て決まっている」という考え方をぼくらの人生にまで適用されたら、虚しくなります。科学の世界では、このことについてどう考えているのでしょうか。
自然現象とは、原子や分子が相互作用をして営まれているものです。原子や分子を小さな玉、大宇宙はビリヤード台にたとえることができます。
ある時刻に、1つの玉が台の上を走っているとします。分かりやすくするために、台と玉との間には摩擦はなく、空気抵抗もないと仮定します。また、玉が台のヘリにぶつかると完全反射(勢いがそがれない)するものとします。
この場合、ニュートン力学(古典力学)の法則によって、入射角と反射角は等しくなり、速さも変わりません。したがって、ある時刻の玉の位置は完全に予測できます。
何年後であろうと、何億年後であろうと、ニュートン力学の方程式を解きさえすれば、このビリヤード玉の位置を正確に計算できるのです。
このビリヤード台に、2つの玉が走っていたらどうでしょうか。今度は、ヘリでの反射のほかに、玉と玉の衝突も発生します。詳しい説明は避けますが、2つの玉が衝突した後も、運動量(速度×重さ)の総和は変化しませんので、やはり完全な予測は可能です。正面衝突ならば来た道を帰るように弾かれますし、斜めに衝突すれば図のように弾かれることになります。衝突後の進路と速度は、正確に計算できるのです。
玉が3つでも4つでも、何億個でも同じです。面倒くさいので誰もそんなビリヤードの計算をしないだけであって、何兆個の玉の何兆年後の位置と速度でも、力学の法則を用いれば正確に予測できるのです。ということは、「現在」という瞬間に、すでに「将来」の玉の位置は決定していることになります。
むろん、実際のビリヤードは、玉と台の間の摩擦や空気の抵抗も受けますので、計算はもう少し複雑になります。しかし、計算不可能ではありません。ハスラー(ビリヤードのプロ)が驚くべき精度で何個も玉を落とすことができるのは、さまざまな条件を考慮して球筋を計算しているから他なりません。
さて、話が元に戻りますが、自然現象は原子や分子(もっと細かくは素粒子)が大宇宙を走って相互作用し合うことです。つまり、上のビリヤード台の例は大宇宙の縮図なのです。素粒子や原子や分子だって、力学の法則に従って動くはずです。結局、ビリヤード玉と同じではないでしょうか。
ということは、素粒子や原子や分子の相互作用の総和である自然現象も、すでに決定していることになります。何兆個のビリヤード玉よりもはるかに複雑ですから、とても人間には「分からない」ですが、すでに何が起きるか決まっていることになります。
人間の身体も素粒子や原子や分子からできています。従って、ぼくらの身体がいつ朽ち果てて死ぬのかも、すでに決まっていることになります。本当でしょうか?
ラプラスの悪魔
ラプラスとは、ナポレオン皇帝の内相をつとめた数学者の名前です。数学上の功績はたいへんなものです。理系にはおなじみのラプラス演算子やラプラス変換など、彼の名前を付けて呼ばれているものはたくさんあります。
彼の「数学観」はきわめて明瞭でした。「数学とは、物理学(力学)を解くための道具である」というものです。
当時は最先端の科学であったニュートン力学(今や古典力学ですが)の法則を星の運行に当てはめ、数学を使って解いてみると、天体の軌道が完璧に予測できたのです。どの星の運行にニュートン力学を当てはめても、その軌道はいささかの狂いもなく計算できるのです。このように、長年、天体の研究をしたラプラスにとって、力学と数学は絶対的に信頼できるものでした。
ナポレオンが皇帝のころ、ラプラスの著書を読んで、こう助言したそうです。
「おまえの本は、神について触れることを忘れている」
ラプラスは悠然と、こう答えたそうです。
「閣下、わたくしには『神』という仮説は無用なのです。知力にとって不確実なものは何一つ存在しません。過去も未来も、共に両眼に映し出されるものなのです」
要は、ニュートン力学と数学さえあれば、過去も未来も全てお見通しだというわけです。
ラプラスは、古典力学の最高のスポークスマンでした。著書「確率に関する哲学的考察」の中で、想像上の抽象生物「ラプラスの悪魔」を登場させ、古典力学の真髄を人々に理解してもらおうと努めました。
全宇宙に存在する素粒子の数といったら、それはもう気が遠くなるようなものです。その全ての素粒子の運動について完全に把握することなど、人間には不可能なことでしょう。ですが、ラプラスの悪魔には、それが可能だと仮定するのです。
ラプラスの悪魔を現代版に焼き直せば、超高性能のスーパーコンピューターと言っても良いかもしれません。ラプラスの時代には、コンピューターが現代のように進歩するとは思いもよらなかったので「悪魔」にたとえたのでしょう。
ラプラスの悪魔は、全宇宙に存在する素粒子の運行を全て把握できるとします。素粒子は、必ず物理学の法則に従います。ラプラスの悪魔は、その法則から瞬時に全ての素粒子の運動を計算できるとします。すると、ラプラスの悪魔にとって全宇宙の素粒子は、前回のビリヤードの話と同じです。彼は、ある素粒子の何億年後の運行であっても、現時点で完全に把握できるのです。
宇宙に存在する全ての物質は、素粒子からできています。その素粒子の運行を全て知り尽くしているラプラスの悪魔にとっては、どんな物質の将来であっても正確無比にお見通しです。その物質が人間であっても例外でありません。人間の身体も素粒子からできているからです。
「いや、人間には意志がある、心がある。これは物質ではないから、素粒子からできていない。従って、人間の行動まではラプラスの悪魔は予測できない」
こういう反論は当然あるでしょう。しかし、人間の「意志」や「心」も、所詮は脳内の化学反応によって引き起こされていると考えることができます。化学反応はイオン(原子が電荷を帯びた状態)によって生じます。イオンも素粒子からできています。
だからラプラスの悪魔は、「われわれが、いつどこで何を考え、どう行動するのか」ということも、「われわれが生まれるはるか昔」からお見通しだったというわけです。
古典力学は、「1つの原因からは、1つの結果だけが生じる」という「因果律」がベースとなっています。ぼくらが安全に安心に暮らしている建築物は、全て古典力学によって設計されています。未来を予測できなければ、設計はできないのです。自動車や電車や飛行機の設計もしかりです。全て古典力学の法則に従って、正確に運行します。
全ては、計算可能だから予測可能なのです。ラプラスの悪魔のようなスーパーマン、あるいはスーパーコンピューターがあれば、未来を完全に予測することができます。台風や地震や津波などの自然災害も完全に予測でき、ますます安全に暮らすことができるでしょう。
しかし同時に、予測可能ということは、未来はすでに決まっているということです。ラプラスの悪魔は、それを全て知っているのです。誰かがどこかで不幸な目に遭っても、それは宇宙誕生の瞬間から決まっており、それを知っているラプラスの悪魔は何の手助けもしてくれないのです。
ラプラスの悪魔こそ、古典力学を突き詰めていった結果、導き出される世界観の象徴なのです。
観測するということ
科学理論が正しいかどうか確かめるには、自然現象を観測しなければなりません。ただ机の上で理論を書いても、自然現象がその理論通りに運行しているのか確かめなければ、まさに机上の空論になります。ラプラスも、星の運行を観測してニュートン力学の正確さを実感したのです。
もしラプラスの悪魔がいるとしたら、彼も観測をしなければ予測できないのです。ラプラスの悪魔を超高性能のスーパーコンピューターに置き換えても同じです。コンピューターに入力するデータは、人間か観測機器によって得られたものです。結局、悪魔であろうがコンピューターであろうが、観測行為からは逃げられないのです。もし逃げたら、それは物理学的ではない、科学的ではない、ということになります。
では、完璧な観測は可能なのでしょうか。物の状態を正確に知ることはできるのでしょうか。もし完璧な観測が可能でないのなら、完璧な予測は不可能となります。
例えば、液体の温度を正確に測ることはできるでしょうか? 「液体の中に温度計を入れれば、正確に測れるではないか」と思うでしょう。それほど単純ではありません。
温度計とは、水銀やアルコールの熱膨張を利用しています。仮にここでは、水銀の温度計を使うとします。温度計を液体の中に入れてしばらくすると、水銀の温度が液体の温度と同じになります。そのときに膨張(または収縮)した水銀の体積から、「水銀の温度」が分かります。この水銀と液体は、同じ温度ですから、液体の温度も分かるという仕組みです。
接触した2つの物質は、温度が高い物質から温度が低い物質に、熱が移動し、同じ温度になったら熱移動が終わります。この原理を温度計に応用したのです。温度計の中にある水銀の量はきわめて微量であるのに対し、測られる方の液体は大きな体積なので、液体の温度は「ほとんど」変化せず、水銀だけが温度が上がり(下がり)膨張(収縮)したとみなしているのです。
しかし、そう「みなして」いるだけであって、温度計を入れたことによって、本当は液体の温度も(ほんの少しですが)変化してしまっています。観測したことによって、観測する前の状態(観測したかった状態)を乱してしまったのです。つまり、完璧な観測はできないのです。
方位磁石で「北がどちらか」ということを観測するときも、実は地球の磁場を方位磁石の磁場が乱しています。地磁気に比べて方位磁石の磁場がきわめて弱いから無視していますが、厳密に言えば方位を測ろうと方位磁石を取り出した瞬間から地磁気を乱し、正確な方位を知ることができないのです。
不確定性原理と因果律の崩壊
運動の因果律をたどるためには、最低限どんな条件が必要でしょうか。
まずは「時刻」でしょう。いつの出来事か分からないのでは、研究のしようがありません。
次に「位置」でしょう。どこにあるのか分からないのでは、やはり研究のしようがありません。
これで十分でしょうか。いいえ。もう一つ「速度」が必要となります。全ての物体は動いているからです。止まっているということも、速度ゼロという状態です。
「時刻」と「位置」と「速度」。この3つさえあれば、物体の運動は追尾できます。ある時刻における位置と速度が分かればよいのです。逆に言えば、この3つを正確に知ることができなければ、物体の運動は予測不可能となります。
日常的に考えたら、これら3つは正確に知ることができるように感じます。自分が「いつ、どこに、それくらいの速度で動いているか」ということは、経験的に分かっていると信じています。
ところが、原子や素粒子などのミクロの世界では、そんなに簡単な話ではないのです。こういう例が分かりやすいでしょう。現在、最も小さな物まで見ることができる顕微鏡は「電子顕微鏡」です。これは、見る対象に電子を当てて、跳ね返ってきた電子を映像化するものです。
電子は最も小さな素粒子なので、細かい部分にまで入り込めると考えてください(実際にはちょっと違いますが、分かりにくくなるので)。電子顕微鏡で撮影された写真を見れば分かるように、小さな物が鮮明に判別できます。自分の皮膚が、惑星の表面のように大きく映し出されます。
では、電子顕微鏡を使って、電子を見たらどうでしょうか。電子を見るために、電子をぶつけるということになります。野球ボールを見るために、野球ボールをぶつけるのと同じです。
ぶつけた電子は跳ね返ってくるかもしれませんが、見られる対象の電子はその後どこかに飛んで行ってしまうでしょう。つまり、観測することによって位置と速度が大きく乱されてしまい、観測前の知りたい状態ではなくなってしまうというわけです。
こう考えると、特にミクロの世界では位置と速度を知ることが極めて困難だということが分かります。観測するたびに、どこかへどんな速度か分からずに飛んで行ってしまうのです。
「いや、ぶつける電子(電子顕微鏡の電子)の速度や向きが分かっていれば、ぶつけられる対象の電子(弾かれる電子)の運動はビリヤードの例のように計算できるだろ」
こう考えた人は、ちょっと詰めが甘いです。そもそも、対象の電子の状態が分からないから、知るために電子顕微鏡を使って電子をぶつけるのです。仮に、ぶつける方の電子の状態は分かっても、ぶつけられる方の状態は最初から全く分かっていないのですから、その後の動向を予測することはできません。
このことを詳しく研究して、「不確定性原理」という法則を導き出し、現代科学の幕開けを果たしたのが、ハイゼンベルクという科学者です。わずか30歳の若さでノーベル物理学賞を受賞しました。式で表すと、次のようになります。
位置の誤差×速度の誤差=h
hはプランク定数といい、一定の値です。右辺は常に変わらないのです。
従って、正確な位置を知ろうとする(位置の誤差を小さくする)と、速度の誤差が大きくなるのです。例えば、位置の誤差を2分の1にすると、必然的に速度の誤差が2倍になります。そうしないと右辺が一定になりません。逆に、速度の誤差をゼロに近づければ、位置の誤差が無限大になっていくのです。
結局のところ、物質というものを根源まで突き詰めて考えたときに、位置も速度も不確定になってしまうということが、現代科学で分かったのです。
もう少し簡潔に言えば、「物事は明確に決めることができない」、または「物事は明確に決まっていない」ということです。ラプラスの悪魔はいないし、どんなに高度なスーパーコンピューターができても未来を完璧には予測できないのです。
つまり、「1つの原因から、1つの結果が生じる」という因果律は成立しないのです。「1つの原因から、複数の結果が生じる」ということであるし、「複数の原因が絡まって、1つの結果が生じる」ということでもあります。
こういったことを見出した不確定性原理は、宇宙や人間が機械やロボットのような存在ではないことを証明したのです。神も悪魔もスーパーコンピューターも干渉できない領域があり、宇宙の運行から人間の運命まで、未来が完璧に決まっている物事などないということなのです。
いつも楽しいエッセイをありがとうございます。
コンピューターとプロ棋士が対局する将棋の電王戦・・・そのドキュメントを
テレビで見ました。
コンピュータが数多くの「一手」の中から最適な「一手」を判断する場合
「数値化」して判断するのでしょうか?
数値化すると考えていいと思います。より正確には、コンピューターは電気信号が流れるか流れないか、オンかオフか、つまり0か1かの二進法を使って「論理計算」しています。そういう意味では「判断する」というのは擬人化し過ぎかもしれません。単に計算しているだけですから。
観測の対象に電子をぶつけずに観測する技術が未来に発見されれば観測が可能になると思います。
コメントありがとうございます。電子に限らず、観測するためには観測対象に何らかの働き掛けをしなければなりません。その働き掛けで、観測対象に何らかの変化を及ぼしてしまうことは、変わらないと思います。つまり、観測することによって、対象の真の姿が分からなくなるということです。
ピンバック: 夢の量子コンピューター – ∂世界/∂x = 感動
ピンバック: 不確定性原理に欠陥があると報じた不勉強メディア – ∂世界/∂x = 感動
面白い文章でした。
しかし、最後「1つの原因からひとつの結果が生じる」って言うのと、「1つの原因から複数の結果が生じる」というのと「複数の原因が絡まって1つの結果が生じる」って、同じことではないでしょうか。プロセスはどうであれ、結局は1つの原因が1つの結果を生じさせているのですから。
コメントありがとうございました。
少し分かりにくかったかもしれません。ここでいう「複数」は、英語でいうところの「complex」で、「ごちゃごちゃした」というような意味合いで使っています。
kirehosiさんが拙文から捉えている「複数」は、「complicated」のほうで、単に要素が多いという状態だと思います。
要は、ここで言いたかったのは、原因や結果というものは個別に単体としてあるわけではなくて、それら自体が絡み合って一体化したようなイメージのものなのだということです。
未来が完璧に決まっている物事などない。それは、偶然ということでしょうか?
(伝道の書 9:11) 11 私はこの地上で次のことも知るようになった。足の速い人がいつも競走に勝つわけでも,強い人が戦いに勝つわけでもない。また,賢い人がいつも食事にありつけるとは限らない。知的な人が裕福になるとも,知識がある人が成功するとも限らない。なぜなら,思いも寄らないことがいつ誰にでも起きるからだ。
投稿ありがとうございます。
正確には必然と偶然の間という感じでしょうかね。
完璧に決まったことしか起こらないわけではないが、
全くの偶然でしか起きないわけでもない、
という感じが正しいと思います。