問題が起きることが問題ではく、その問題を解決できないことが問題である


タイトルは、ぼくが社長時代に、しばしば社員たちに言っていたことです。最近、ぼくが社長をしていた会社のグループで、いろいろと問題が起きていることを知り、元部下たちに同じことを言ってあげました。

どんな組織でも、問題というものは起きるものです。短絡的な人は、その問題が起きたことをことさら問題視します。そして、問題を起こした人を糾弾したり、あるいは早く鎮静化しようと火消しに躍起となったり、はたまたは自分はその問題に関係がないと無関心を決め込んだりします。

むろん、なぜその問題が起きたのかという原因究明は大切です。その過程では、問題を起こした人が誰かということを特定することにもなるので、その勢いでその人を糾弾したくなる気持ちは分かります。また、問題が組織内に知れ渡って騒ぎが多くなると、組織の維持が大変になるから、早く鎮静化したいという気持ちも分かります。さらに、実際に直接その問題に関係していない人は、巻き込まれて仕事が手に付かなくなるのも困るので、無関心でいようとする気持ちも分かります。

しかし、ぼくはこういう姿勢は良くないと言ってきました。こういう姿勢とは、問題が起きることを問題視する姿勢です。どんな組織でも、問題というものは起きるのですから、起きたことそのものを問題視しているだけではいけないと思うのです。むしろ、「問題が起きることは当然だ」という姿勢でいることが肝要なのです。

そのような起きるべきして起きた問題を、どのように解決していくのかということこそ、取り組まなければいけないことです。それに取り組まず、その問題を解決できないことこそ、問題視するべきなのです。

問題を解決できれば、それはモデルケースとなります。今後、類似した問題が起きたときに、その問題を解決するための指針となってきます。そのような解決策を多くもっている組織こそ、真に強くなっていくのです。また、他の組織からもお手本されていくのです。

ぼくが見ていて最も見苦しいと感じるのは、政党と宗教団体のていたらくです。この2つの組織は、高尚な理念を掲げて人々の役に立つことを存在目的としています。それにかかわらず、仲間うちで問題が発生すると決まって分裂し、相手方を激しく糾弾します。

彼らがいくら高尚な理念を掲げていたとしても、自分たちの組織内の問題を解決できないのであれば、その高尚な理念は単なる絵に描いた餅に過ぎません。そのような理念に基づいて問題を解決してこそ、初めてその理念の正当性を証明できるし、多くの人が同様の問題を解決しようとする際のモデルケースになっていくのです。そうなれば「この政党に投票しよう」、「この宗教団体に入ってみよう」となっていくのです。

歴史的に見ても、政治と宗教がたくさんの戦争を引き起こしてきたことは周知の事実です。今後はそういうことを繰り返さず、まずは自分たちの仲間うちで仲良くできるようにしてほしいものです。


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