日テレ「明日ママ」問題と村上春樹さんにみる二流と一流の差


日本テレビの大久保好男社長は「明日ママ」問題について、公式の場で謝罪しないことを表明しました。「施設で暮らす子供が傷ついた」として、全国児童養護施設協議から受けていた謝罪要求を却下したことになります。ますます問題は拡大するでしょう。片や短編小説「ドライブ・マイ・カー」について中頓別町議から抗議されていた村上春樹さんは「単行本収録の際は修正する」と回答し、町議も納得。問題は収拾しています。これが二流言論者と一流言論者の差でしょう。

創作活動は、自由は発想の中で成される

12星座
日本には言論の自由があります。その自由は何人も侵すことができません。そういう意味では、日テレがどんなドラマを放送しようが、村上さんがどんな小説を書こうが、基本的には自由です。

しかも、ドラマや小説というものはフィクション、作り話です。ぼくらクリエーターからすれば、「作り話なんだから大目に見てよ」というのが本音です。しかし、これはあくまでも作り手側の理屈です。作り話でも、それを観たり読んだりして傷つく人からすれば、大目に見られるわけがありません。

「だから、視聴者や読者が傷つかないか良く考えて創作せよ」という論調も見受けられます。確かそれは正論でしょう。しかし、はっきり言って、それは大変な作業です。もちろん、テレビや書籍は大きな影響力がありますから、なるべくそのように創作するべきですが、やはり限界があります。制作側が考えもしなかった反応が返ってくることは、多々あるのです。

また、あまりにも制約でがんじがらめにされたら、創作ってできないものです。自由な発想の中で成されるのが創作活動だからです。だからこそ、言論の自由が保障されているわけです。ですから、あまり過度に「この表現は視聴者、読者を傷つけないか」と考えすぎると、何も作れなくなるでしょう。

自由を行使するには、必ず責任が伴う

謝罪
だからといって、作り手側が言論の自由を盾に、「これはフィクションなのだから、傷つくあなたが変なのです」と開き直ったら、どうでしょう。そのフィクションによって本当に傷ついた人がいるとしたら、はらわたが煮えくり返るでしょう。今回の日テレの対応は、ここまで酷いものではないにしろ、本質的には似たようなものです。

しかし、村上春樹さんは違いました。真摯に非を認め、修正を約束しました。ここまでされたら、中頓別町議は振り上げた拳を下ろすしかありません。更に「いや、村に慰謝料を払え」などと怒ったら、今度は町議のほうが世論から叩かれます。

これが二流と一流の違いです。「抗議をされても謝らないのが二流、謝るのが一流」ということではありません。もし、抗議のほうが不当であれば、言論の自由を盾にとことん闘うべきです。しかし、今回の2例については、抗議が不当だとも思えません。だったら、自分の表現手法の至らなさを悔い、率直に謝ったほうがよろしいです。

自由を行使するには、必ず責任が伴うということです。「ゆとり世代」が「仕事よりもプライベートを優先する」と批判されるのは、仕事という責任を果たさないのに自由ばかり行使しようとするからです。それと同じです。言論の自由を行使したいのだったら、言論の責任も果たしてくださいということです。

つまり、自らの言論によって誰かが傷ついたり、損害を被ったら、真摯に謝罪し、場合によっては賠償するべきだということです。それが社会人、法人としての責任の取り方でしょう。それができなかった日テレと、それができた村上春樹さんに、二流言論者と一流言論者の差を見るのです。

先ず、隗より始めよ

同じことが、ぼくら視聴者、読者にも言えると思います。「抗議」や「批判」という言論活動をすることは自由です。しかし、言論の自由を行使したことで、傷ついたり、損害を被る人が出るかもしないのです。特に、お手軽になったインターネット上での言論活動においては、注意したいものです。

ドラマ「明日、ママがいない」の制作スタッフたちは、一生懸命にこのドラマを作っているはずです。日テレ上層部の考えはどうあれ、現場では情熱を込めて制作しています。俳優さん、カメラマンさん、照明さん、音声さん…、みな「良いドラマを作ろう!」と思って、自分のスキルを最大限に発揮して仕事をしています。このような現場の人々はもちろん、その家族も「ぼくのお父さん、わたしの夫は悪い番組を作っているの…?」と、今回の問題で傷ついているはずです。

日テレ経営陣だって、損害を被っています。「明日ママ」からはスポンサーが降りてしまいました。広告収入は減ってしまいます。局の評判もガタ落ちです。

もし、「テレビ局や作家は強者、視聴者や読者は弱者。弱者の言論によって強者が多少ダメージを受けたっていいじゃないか」というような発想でいたら、それは改めるべきでしょう。強者、弱者の構図なんて、コロコロ変わります。仮にこの問題で日テレが倒産したら、多くの雇用が失われます。日本の言論機関の一角がなくなります。このことのしっぺ返しは、必ずぼくら国民が被るものです。

「そんなことまで考えていたら、抗議や批判なんてできない」と言うのであれば、テレビ局や作家に「視聴者や読者が傷つかないか良く考えて創作せよ」と偉そうに言える立場ではありません。先ず、隗より始めよ、です。

自分の言動で傷つく人がいることを知ったときに、率直に「ごめんなさい」と謝ることができる人間、会社組織、社会風土を作り上げていきたいものです。そして、そのようなことを促進できるのも、実はマスコミやインターネットなどであることを、そのメディアで言論活動する者たちは肝に銘じていきたいものです。


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