なぜウェブライターは、いともたやすく過激な表現に走りたがるのか?


ぼくが参加している「All About News Dig」の常連ライター・山田ゴメスさんの論説「ウェブライターよ。なぜ君たちはこれほど文章がヘタなのか?」が、大炎上中なのだそうです。読んでみましたが、炎上するような内容ではありませんでした。内容そのものではなく、他人の文章を「ヘタ」と評する「上から目線」のタイトルに、感情を害した人が多かったのでしょう。

うまい文章、カネになる文章、どちらが大切?

札束を数える
地方新聞社の取材記者・整理記者(編集者)を経験してきたぼくからすれば、山田ゴメスさんの論説は至極まっとうだと思います。紙媒体の原稿には文字数制限がありますから、その範囲内で書くべきこと、書きたいことを表現しなければなりません。そういう制約の中で訓練されたライターの文章は、とても洗練されていて読みやすいものです。それに比べて、ウェブ上のメディアは無制限に書くことができますので、得てして文章に無駄な贅肉が付き過ぎて、醜い、否、読みにくい様相を呈していることは、多々見受けられます。

「無制限に書くことができる」というウェブメディアの特性が、ライターとしてのスキル向上に対して弊害となることは否めません。しかし、訓練されて一定のスキルを獲得したライターにとっては、制約から解放されて無制限に書くことができる環境は、この上のない喜びでもあります。

もちろん、喜びだけでは飯を食っていけません。そこを突いて反論しているのが、イケダハヤトさんです。

紙のライターよ、「文章の巧さ」を誇る暇があるなら「マネタイズ」を頑張りなさい

ブログで生計を立てておられるイケダハヤトさんならではの論説です。過激な表現満載ですが、一理はあると思います。ぼくも独立して(映像制作メインですが)、「ブログでも収入が得られればいいなあ」と思っていますので、彼の「イケハヤ書店」はマネタイズの手本として、しばしば閲覧しています。

「なぜウェブライターは文章がヘタなのか」という山田ゴメスさんの論説とは、争点が微妙にずれています。つまり、本論に対する反論とはいえません。それでも、とても参考になることは事実です。いくら「うまい」文章を書くことができても家族を養えなければ、男としてはふがいない限りです。

読まれない文章に価値はあるのか?

読書
山田ゴメスさんの論説は、タイトルが過激だったので炎上したのでしょう。本文では「なぜ、ヘタなのか」という理由を論理的に述べているのですが、カチンとくる人々にとっては理由なんかどうでもいいのです。上から目線で「ヘタ」と指摘されることに、怒りや憤りを抱くのだと思います。面と向かって「おまえの文章、ヘタだな」と言われたら、傷つく人が多いです。それと似たような効果だったのでしょう。

人間は感情に左右される動物ですから、当然の反応でしょう。むろん、片や人間には理性も備わっていますので、「こんちくしょう」と思っても、山田さんの論説を読んで納得する場合もあるでしょう。本文そのものは全く過激ではありませんので、タイトルが生んだ炎上であるといえます。

一方、イケダハヤトさんの論説は、本文そのものの表現が過激です。喧嘩腰という感じ。でも、イケダさんのブログを長年読んでいる人は分かると思いますが、ずっとこんな感じです。そういう「作風」なのだと思います。ですから、読み慣れているぼくからすれば、喧嘩を売っている(あるいは買っている)わけでもなく、イケダさんとしての主張をイケダさんなりに述べているだけであると感じます。

いずれにせよ、山田さんの過激なタイトル、イケダさんの過激な文体、というように「過激な表現」がウェブ上に多いことは共通しています。「なぜそうなるのか」という理由は自明のことでしょう。注目を集めたいからです。純粋に「文章を読んでほしい」という理由にしろ、「これでお金を稼ぎたい」という理由にしろ、ともかく注目してもらわないことには始まりません。

その手段として、過激な表現になってしまうことは紙媒体でもあることですが、ウェブ上ではさらに強烈だと感じています。それは、無制限に書くことができる媒体であるがゆえでしょう。情報量としては無限に近いものがあふれる世界ですから、その中から注目してもらうためには、おとなしい表現では限界があるということだと思います。

読まれない文章に価値がないとはいえませんが、誰にも読まれない文章って存在しているとも言えないでしょう。存在していないものには、価値の有無さえ問えません。やはり、読んでもらうために注目を集めることも、文章を書く上で必要なことなのです。そのための手段として「過激な表現」というものがあるわけです。

「ウェブメディアって、こんなもんだ」という割り切りも重要

タブレット
ぼくが新聞の整理記者だった時代は、「見出し」の付け方が最も重要な仕事でした。駅売りでも置いてある新聞だったので、パッと見て人を引き付ける「見出し」を付けなければなりませんでした。当時(約30年前)は、まだ活版印刷の時代です。つまり、「見出し」にも文字数制限があったのです。5文字、7文字、12文字のいずれかで作らなければなりませんでした。それ以外の文字数は許されませんでした。俳句や川柳のような世界です。編集が始まる午前零時くらいからは、整理記者が黙々と指を折りながら見出しを考える光景が日常でした。

写植の技術はありましたが、お金がかかるので「2ページに1回」と決められていました。写植ならば、「見出し」の文字数がどうしても1文字多くても、長体(あるいは平体)にしてもらうことができます。しかし鉛の活字では、それもできません。いかにして、5文字、7文字、12文字でインパクトのある「見出し」を作るのかということが、整理記者のスキルにつながりました。

ですから、当時は編集者と言わず「整理記者」と呼んだのでした(今でも新聞社内では呼ばれているのかな?)。レイアウトをする単なる編集者ではなく、「本文を読ませるための見出し」を書く記者だということです(今でいうコピーライターと編集者を兼ねた人みたいなものでしょうか)。そんな時代の新聞社の常識からみたら、ちょっと失礼な言い方ですが、こんなタイトルは長すぎます。即、人事異動です。

ウェブライターよ。なぜ君たちはこれほど文章がヘタなのか?
紙のライターよ、「文章の巧さ」を誇る暇があるなら「マネタイズ」を頑張りなさい

すみません。批判しているわけではありません。要は、時代や媒体によって、常識なんて変わると言いたいのです。

無制限な情報の海の中で注目されるためには、過激なタイトル、過激な文体、長すぎるタイトル、なども必要なのだと思います。むろん、他人を傷つけるような表現は避けるべきです。

ただし、読者の側もあまり「傷つけられた!」と過敏に反応することはないようにしたいです。過激な表現も、所詮、注目を集めるための手段にすぎないからです。特にウェブメディアは、そういう媒体だと割り切って接することが大切でしょう。

どうしても過激さに腹が立つサイトがあったとしたら、いちいち反応するよりも、「見ない」という手段で対抗するべきです。注目を集めるために過激な表現が用いられるのですから、「見ない」人が増えればそういう手法はやがてなくなります。

というわけで、ぼくも今日は試しに、過激なタイトルにしてみた次第です。(^_^;)


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