現代日本の結婚式・葬式にみる聖と俗


お色直し一回20万円・ブーケ投げて5万円 「結婚式の業者ってヤクザだと思う」というエントリーが話題に』という記事を読みました。タイトルのごとく、費用が高い結婚式業者への疑問、不満が述べられていました。結婚式だけでなく、葬式も似たようなものでしょう。結構「言い値」で決まってしまうジャンルなので、いろいろと意見は出るものです。ぼくの意見も述べてみます。

日常生活での常識は通用しない

新郎新婦
ぼくの場合は、結婚式で150万円くらい使いましたね。昨年、父親を亡くした時の葬式でも、お坊さんへのお布施も含めて、やはり150万円くらいかかりました。どちらの場合も、特に疑問を感じることもなく、「そんなもんなのかな」と思った程度でした。

結婚式なんて、別にしなくてもいいものです。でも、普段は信仰心などなくても、新しく家庭を出発する際には、何となく「神さま」に永遠の愛を誓ってみたくなるものです。さらに、お世話になった両親や親類縁者にも感謝の意を表したいし、門出を祝ってほしい。そうなると、やはり何だかんだとお金はかかるものだと思います。

葬式だって、別にしなくてもいいものです。普段は「死んだらあの世に行くんだ」などと考えてもいないでしょうし、かえって「そんな考えは非科学的だ」と軽蔑している場合すらあります。しかし、近しい人がなくなると、何がしかの儀式で弔いたくなるものです。ぼくも昨年の父の葬儀では、かかったお金は全然無駄だと感じませんでした。

当該記事のように、「物の値段、サービスの値段」と考えてしまうと、「高すぎないか」と感じてしまうのは致し方ないと思います。お色直し一回で20万円、ブーケを投げて5万円って、日常生活のレベルで考えたら無駄遣いもいいところでしょう。

でも、「一生に一回だから」という業者の言葉も、一理はあるでしょう。つまり、非日常生活における諸々の費用だということです。そういう意味では、日常生活での常識は通用しないとも言えます。

まあ、結婚は一回とは限らず、二回、三回と繰り返す人もいますけど…。葬式も、確かに自分が亡くなるのは一回きりですが、親兄弟の葬儀に関わることは多いですから、それだけ費用はかさみます。ですから、なるべく安く済ませたいというユーザー心理は、分からないでもありません。

不信心者が「崇高な儀式」に手を出すな

フランスの教会
業者の言うように、非日常生活での特殊な営みなのだから、かかる費用も非日常生活レベルなのだという理屈に、ぼくは理解を示します。そういう費用に対して、文句を言ったり、値切ったりすることは、あまり好ましくないと考えます。

当該記事のように「ヤクザ」のようだという言い方は、いかがなものでしょうか。もし、そういう費用が高すぎると思うのなら、結婚式や葬式をしなければいいだけです。しなければいけないという法律もありません。

そもそも、それらの儀式のおおもとである宗教(キリスト教、神道、仏教など)の信者ではない人がほとんどなのですから、「しないと天国に行けない、地獄に堕ちる」などという宗教的確信や強迫観念もないでしょう。

本来は信仰心がある者がするべき儀式であって、そうでない不信心者が「崇高な儀式」に手を出すから、「費用が高すぎる」という「俗世界の日常生活レベルの考え」で判断してしまうわけです。

とまあ、儀式の本来のあり方、すなわち宗教的な側面から業者を擁護してみました。しかし、その理屈で言うと、業者の方も値段を決めてはいけないはずです。宗教っていうものは、富める人にも貧しい人にも、平等に救いの道を与えなくてはならないものだからです。貧しい人には、結婚式・葬式の費用を安くしてあげて(むろん儀式の質は落とさずに)、万民に幸せを分け与えるべきです。

中世ヨーロッパのキリスト教会では、礼拝の最後に教会の職員が献金袋をもって参加者の中を回ったそうです。参加者はそこへ手を入れて献金を入れます。しかし貧しい人は手を入れるだけで、お金は入れなくても良いと言われていました。「神さまへの感謝」を表わすのが「献金をするという『思いや行為』」であって、「お金そのもの」を神さまへ捧げるわけではないという説明でした。つまり「献金袋に手を入れる行為そのもの」が、「神さまへの感謝」だったのです。

当時は医者も聖職者といわれ、教会の牧師・神父と同じ立場でした。神さまから人の病を治す術を与えられた者が医師だと考えられていたのです。当時の医師は、患者の家を一軒一軒回る往診が主でした。医師は診察する際、ふたの空いた鞄を玄関に置いておきます。往診を終えた患者は、その鞄に手を入れ、お金を入れます。

そして礼拝と同様に、貧しい人は手を入れるだけで、お金を入れなくても良いと言われていました。理由も礼拝と同じ。「神さまへの感謝」を表わすのであって、「お金そのもの」を捧げるわけではなかったのです。

現代日本の結婚式業者、葬式業者も、こういう「崇高な儀式」を司っているのだという自覚は持っておくべきでしょう。こういう精神をもって仕事をしていれば、貧しくても儀式がしたいという人がいれば、喜んで費用を下げてあげることができるでしょう。

それでは商売が成り立たない? だったら、「崇高な儀式」を扱うのではなく、「俗世界の儀式」を考え出して「俗世界の人間」が満足するサービスや商品を開発してください。そのためには、当然値段は安くするか、高くてもユーザーが満足するものにしなくてはなりません。「ヤクザ」とまで言われてしまうのは、もはや「サービス業」としては失格です。

宗教的な「崇高な儀式」は、司る側と施される側との信頼関係で成り立っているものです。その信頼関係の中核には、「同じ信仰をもっている」という共通項があります。そういう意味では、現代日本の結婚式や葬式というものは、その信頼関係がありません。見直す時期にきているのかもしれませんね。


“現代日本の結婚式・葬式にみる聖と俗” への1件の返信

  1. ピンバック: 「慌てて結婚して、ゆっくり後悔しろ」というイギリス人の感性が好きです | ∂世界/∂x = 感動

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