保育園の開園延期問題で見えてくる社会的ジレンマ


悩み
『保育所作りたくても… 住民が騒音など懸念、延期相次ぐ』という記事を読みました。入園募集を開始していた東京都の認可保育園が、住民の反対にあって開園を延期しているというものです。

 保育園は、住宅地の中にある約320平方メートルの元工場(鉄骨2階建て)を改装する計画。敷地は2方向で道路に面し、一つは車がすれ違えないほど狭い。

 区報で計画を知った住民から、子どもの声による騒音や送迎の車による問題を心配する声が相次いだ。園を認可する都に複数の住民が不服の申入書を提出。反対署名が約220人分集まった。

 住民には高齢者が多い。年配の女性は「保育園と家の距離がほとんどないのに防音はできるのか」。不服の申入書を出した年配の男性も「何の事前説明もなく、募集が始まった」と不信を強める。

事前の説明がなかったとか、道路事情や騒音の問題もあって、周囲の住民も不安や不満があるようです。それは理解できますが、待機児童が社会問題化している中で、保育園を作ることができないというのも困ったことです。

かつては(今でもたまにある)ゴミ焼却場を建てるときにも、住民が反対してなかなか建設できなかったこともあります。端的にいってしまえば、「社会的な必要性は感じていても、自分たちの近くでは嫌だ」という問題です。

いつの時代も繰り返される共有地の悲劇

実は、こういった問題は「複雑系の科学」という学問分野において「社会的ジレンマ」と呼ばれ、研究が行われています。数学者や物理学者や心理学者などが共同で研究する場合が多いです。ギャレット・ハーディンという学者が、「共有地の悲劇」という話の中で紹介したのが始まりです。

産業革命前のイギリスに、コモンズという牧草地がありました。誰もが自由に羊を放牧できる共有地です。農民たちは自給自足をするために、コモンズで自分たちの羊を放牧していました。

そのようなイギリス社会で、産業革命が始まりました。衣服などの大量生産が可能となり、羊毛の需要が高まってきました。需要に供給が追いつかない状態ですから、羊毛を売れば売るほど儲かります。農民たちは、自給自足の量を越えた羊を育てようとし、こぞってコモンズに放牧しました。

やがてコモンズは羊で埋め尽くされ、牧草は食べ尽くされてしまいました。エサが足りないので、羊は牧草の根っこまでほじくり返して空腹をしのごうとしました。根絶やしにされたコモンズには、翌年から牧草が生えなくなってしまいました。コモンズは牧草地として使用できなくなり、農民たちは共有地という共通の財産を失うことになったのです。

つまり、個人が自分の利益だけを追求して行動すると、最終的には全員が大きな損失を被ってしまうということです。

1人の農民にとっては、「自分の羊の群れが1頭増えたくらいでは、コモンズの損失は微々たるものだ」と考えます。確かに、自分1人が増やしただけならば、その考えは正しいです。

しかし、コモンズを使用している農民全員が同じように考えて行動すれば、コモンズの壊滅となります。そのことに1人の農民が気付き、自分は羊を増やすことを我慢しても、彼1人だけでは悲劇は防げないです。しかも、自分だけ羊を増やさず、他の人たちが増やしてしまえば、自分だけ一方的に損失を被ることになってしまいます。

唯一の解決策は非論理的手段(宗教的手段)

整理すれば、次のようになります。

1)集団の構成員である各個人が、協力行動か非協力行動かの、どちらかを選択できる。
2)各個人にとっては、非協力行動を選択する方が得をする。
3)全員が非協力行動を選択すると、全員が損をする。

これが社会的ジレンマです。少し専門的な表現を使えば、「部分最適と全体最適の解は異なる」ということです。部分にとっての最適な答えと、全体にとっての最適な答えは異なるということです。

実は、この社会的ジレンマは、論理的手段(科学的手段)では解決できないことが分かっています。非論理的手段(宗教的手段)でしか解決できないのです。つまり2)を選択しないということ、各個人が得をするように行動しないこと、全員が協力行動を選択すること、です。それではじめて、全員が得をするのです。

これは別に宗教や道徳の話でなく、科学としての研究成果です。いろんなケースをコンピュータでシミュレーションした結果として、「2)の非協力行動を選択しないことがベストな解である」ということが証明されているものです。

すなわち、「私たち全員で、各個人の利益にならないことを選択しよう!」という、個人的に考えたらまったく理にかなわない決意・総意、すなわち宗教的信念に似たものがない限り、社会的ジレンマは決して解決できないというわけです。

冒頭の保育園の問題に戻れば、周辺住民が社会全体のためを思って、交通事情や騒音を甘受し、事前説明のなかったことも許してあげることで解決します。科学の理屈でいえばそういうことなのですが、当事者だったらそんなに簡単に「はいそうですか」と言えないことも理解できます。

難しい問題ですが、そういう問題を解決してこそ、平和な社会が築けるのだと思います。逆にいえば、平和な社会をつくるということは、それだけ難しいということですね。


“保育園の開園延期問題で見えてくる社会的ジレンマ” への2件の返信

  1. 都心の保育園のニュースは大変な事だと思いました。同じように障害者の自立支援施設も「住民の反対」などがあり、山奥のてっぺんに作られていた時もありました。人里離れた山奥で彼らは日々過ごすわけですが、「障害者の社会参画」をうたいながら、あきれた現実でした。
    今回のお話で、農民が羊を1頭ずつ増やすことと、共有地を拡大してゆくことの両立は、可能性としてなかったのでしょうか。
    また、「静かな生活」か「子供たちの声で落ち着けない」どちらが良いか・・・・という選択の前に、宗教的選択を迫られる前に様々な意見交換や話し合い等をとおして、「皆が損をする」という選択ではなくて未来のために、子供たちのために・・・・という心が変化するノリシロは存在しない・・・という前提の科学的思考なのでしょうか。

    • おっしゃるとおり、そういうノリシロは前提としないで、与えられた条件下でシミュレーションした結果の話です。人間は科学に制約されるものでもないですから(科学を見いだしているのは人間のほうですから)、うまく利用していけばいいと思います。

      現実としては、kansukeさんが書かれたように、まずは話し合いでしょう。今回の例の場合、事前説明がなかったというのがそもそもNGですが、まだ遅くはありません。虚心坦懐に話し合ってほしいです。

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