科学リテラシーのかけらもない宗教化する科学の危険性



「宗教化する科学」を別の言葉で表現すれば疑似科学です。または似非科学、にせ科学などとも呼ばれます。そう呼ばれる理由は、科学という営みが「知るための方法論」であって、「信じるための方法論」ではないからです。

ちなみに疑似科学については『疑似科学入門』(著:池内了)に分かりやすくまとめられています。

本書の要点を抜粋すれば、下記のとおりです。

(要点はじめ)
【第一種疑似科学】
科学的根拠のない言説によって人に暗示を与えるもの。血液型人間学、占星術、幸運グッズなど。
【第二種疑似科学】
科学的装いをしていながらもその実体がないもの。統計・確率の悪用、相関関係を因果関係とする誤用など。
【第三種疑似科学】
複雑系で科学的に証明しづらい問題について、真の原因を曖昧にするもの。人為的二酸化炭素による地球温暖化仮説など。
(要点おわり)

「よく知った上で信じる」ということもありますけれども、それは「知った後の結果」です。何かを信じる上で根拠を得るために(何かを信じることを目的として)科学が営まれるのではありません。

「そんなことはない!」と反論されるお方もおられるかもしれませんが、科学の世界ではそう定義付けているのですから仕方ありません。

たとえて言うなら、警察の鑑識係のようなものです。鑑識係は、「あいつが犯人だ」と信じて現場検証をしてはいけません。あくまでも現場に残された物的証拠を収集することを目的とします。科学も同じで、「この現象はこういう原因があるに違いない」と信じて研究してはいけません。

むろん、仮説を立証するために研究をするのですから、「仮説を信じている」とはいえます。しかし、もし研究の結果、仮説が否定されたら、潔く仮説を捨て去るのが科学的な態度です。

そこが宗教と違います。宗教の信者は、1つや2つの否定材料くらいで信仰を捨て去らないからです。その宗教を信じない人にとっては、その宗教を信じている人の姿は「盲信」として映ります。信じている人にとってはリアリティのある霊体験も、信じない人にとっては幻聴や幻覚みたいなものにしか感じられません。

信仰者にとっては、タイトルのように科学が宗教化していくことは大歓迎であるかのように感じますが、いえいえ、危険です。そもそも科学とは「知ること」であって、「信じること」ではないからです。

福島原発事故をみれば明らかです。「科学者が知恵を結集し、科学技術の粋を集めて建設された原子力発電所だから大丈夫だろう」と、多くの人々が「信じて」いました。ところが、大震災であのような悲惨な事故が起きた結果、今では誰もが危険性を「知って」います。

原発について市民は、やっと科学的な思考ができるようになったと言えます。もし、震災前からこのような思考ができていれば、被害はこれほど広がらなかったでしょう。

これは何も、「もっと反対運動が活発になって、原発が建設されなかっただろう」という短絡的な意味ではありません。「市民は、もっと原発の仕組みについて知ろうとし、事前に危険性を理解し、その危険性を回避することを国や電力会社に要求していたであろう」、「その結果として、建設された原発は、今以上に安全性の高いものになっていたであろう」という意味です。

これが科学リテラシーです。ぼくら市民は、もっと科学について「科学的に考えられるように」なるべきなのです。「科学を科学する力」を養うべきです。このようになれば、もはや疑似科学を安易に信じる人々はいなくなるでしょう。

ところが現実的には、科学を「信じる」人々が増えています。「原発はどのようにして電力を生み出すのか」、「放射線とはどういうものか」などといった科学的な思考を抜きして、出来上がったものを信じてしまう・・・。これは危険です。ですから、全く科学的ではない疑似科学をも信じてしまうわけです。

科学が言えるのは「どれくらい安全か」ということであって、「安心かどうか」ということは言えません。安心は、自分の心の問題です。科学に安心を求めてはいけません。ましてや、疑似科学に安心を求めるなんて、愚の骨頂です。

よく知った上で、信じる。あるいは、信じたものについて、知って(理解して)みる。これこそ宗教と科学のいいところ取りです。宗教も科学も人類の英知の結集として営まれてきたものですから、いいところはどんどん人生に取り入れ、弊害のあるところは無視していくことです。そうすれば、宗教も科学も、もっともっと良いものになっていくことでしょう。


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