正体隠しの疑似科学への処方箋は「疑って、考えて、納得して、信じる」。


女性科学者
疑似科学とは「科学という虎」の威を借りた疑似宗教です。あるいは、「科学的である」と偽装した偽宗教といってもよいでしょう。ぼくは疑似科学について、「共産主義に代わる人類への脅威」であるとすら考えています。

現代の日本では、ゲーム脳理論、マイナスイオン効果、地球温暖化仮説、水からの伝言など、疑似科学のオンパレードです。

一昔前には、歯に衣着せずにズバリ言う女性占い師や、霊やオーラが見えるという自称スピリチュアルカウンセラーの男性などが、テレビ界や出版界で引っ張りだこでした。むろん、ズバリ言う占い師や自称スピリチュアルカウンセラーの主張も疑似科学です。

誤解のないように注釈しますが、ぼくは上のような疑似科学の「内容そのもの」を批判しているわけではありません。どんな教えを説こうが自由ですし、何を信じるかということも自由です。ですから疑似科学の内容がどんなものであっても、ぼくは「内容そのもの」を批判しません。

ぼくが問題視しているのは、上で挙げたような疑似科学を説明するときに、「この話は科学的には認められていないものですよ」とか、「これは宗教(あるいは宗教的な言説)ですよ」などと一切言わない点です。疑似科学は正体を隠して流布されています。

科学者たちの厳しい反証試験にパスした理論でなければ、「科学的である」というお墨付きはいただけません。しかしテレビや新聞や書籍で、あたかも科学的であることが周知の事実であるかのごとく、何の反論も併記しないで情報を流し続ければ、科学に詳しくない人々は「これって科学的なのね、常識なのね」と信じてしまいます。

二酸化炭素が地球温暖化を起こしていると信じている人、マイナスイオンが体に良いと信じている人などは大勢います。テレビ局ではニュース番組の合間に「血液型占い」を平気で放映しています。子どものころからそんな番組を見続けていれば、血液型で運勢が決まると本気で信じる人間ができ上がります。

さすがに、ズバリ言う占い師や自称スピリチュアルカウンセラーの主張を科学的だと思っている人は少ないでしょう。しかし、「常識」として認知してしまうことはあり得ます。先日マクドナルドに入ったら、女子高生たちが「あたしの前世は北欧の騎士なんだって」、「私のオーラは紫色みたい」などと会話していました。前世もオーラも、もはや「常識」となりつつあります。

そもそもテレビや新聞や書籍などは、「正しいことを伝えてくれるもの」という信頼の上に成り立っています。「科学的である」ということに匹敵する位置にあるのがマスメディアなのです。そういう場で、前世だ、オーラだ、温暖化だ、マイナスイオンだと言い続けていれば、科学的云々以前に人々は信じてしまうのです。

これは極めて憂慮すべき事態です。科学と疑似科学の見分けがつかなくなりますと、社会の事象に関しても的確な判断ができなくなってくるからです。

2005年の小泉首相による郵政解散衆院選や、民主党が政権を握った2009年の衆院選などは、今から振り返ると極めて異様な雰囲気の中で行われました。果たしてどれだけの人々が本当に自分で考えて投票したのでしょうか。各党のマニフェストをしっかりと読んだ人は、どれだけいたのでしょうか。候補者の演説を聞き、政策について直接質問した人は何人いたのでしょうか。

候補者が訴える政策を自分の頭を使って科学的に分析し投票した人は、極めて少ないのではないでしょうか。テレビなどで流れている情報だけを鵜呑みにし、投票行動に至った人が多いように感じます。そうでなければ、これだけの大差はつかなかったはずです(今の安倍政権の場合は、野党が貧弱過ぎるので圧勝は仕方ないですが)。

自分で考えて判断するという「科学的方法論」を忘れた現代人は、本来の民主主義から離れてきていると危惧します。自分たちが社会の主人公である本来の民主主義ではなく、観客民主主義に陥っているのです。

科学とは本来、深い思考力を身に付けさせてくれるものですが、疑似科学は思考を停止させてしまいます。自分の頭で考えるのではなく、偉そうな人が言うことを無批判に信じてしまう人々をつくり出してしまうのです。

「疑って、考えて、納得して、信じる」。これが疑似科学への処方箋です。

疑うことは、決して悪いことではありません。「疑うこと」と「信じること」は対局の立場ではなく、むしろ相互補完関係にあります。何の疑いもなく信じる純粋無垢な心の世界も必要ですが、疑って疑って疑い抜いて信じる心の世界もまた必要です。そのほうが、結果的には深い思考力・理解力を勝ち取れるからです。

総合研究大学院大学教授の池内了氏は、次のように述べています。

神の愛のみを教えているだけでは、むしろ「悪魔」にしてやられるばかりになってしまうだろう。(中略)疑似科学も私たちを誘惑しようとする1つの「悪魔」である。私たちに「考えさせない」あるいは「考えることを放棄させる」のが「悪魔」の仕事であり、疑似科学はその役割を果たしているからだ。『疑似科学入門』(岩波新書)P184~185

科学は極めて疑い深い学問です。疑い抜かれた結果として科学的と認められるので、人々から信頼されるわけです。ですから逆に、疑うことを省いて一足飛びに結果を決めてしまう疑似科学は、科学への信頼を裏切る行為となります。私たちは正体隠しの疑似科学に対して、十分に注意しなければなりません。


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