ブレンディのCMに持ち上がった「騒動そのもの」に「哲学」を感じました


AGF(味の素ゼネラルフーズ)の商品「ブレンディ」のCMが、論争を巻き起こしています。特濃牛乳100%使用という商品の魅力を伝えたもので、牛を擬人化した描き方に賛否が分かれています。

「濃い牛乳を出し続けるんだよ」 女子高生を胸が大きい「乳牛」に見立てたAGFのCM動画に賛否

 動画の舞台は、牛の学園の「卒牛式」。鼻輪を付けた制服姿の生徒たちは、自分の番号が呼ばれると立ち上がり、校長からそれぞれの進路が書かれた「卒牛証書」を受け取る。行き先は動物園、闘牛場などさまざまだが、皆が望み通りの道に進めるとは限らず、食肉になることが決定して泣き崩れる生徒もいた。

そうした中、主人公「ウシ子」の進路発表の瞬間がやってきた。ウシ子はこれまで「特別な存在」となるために、たゆまぬ努力を重ねてきたのだった。校長から告げられた行き先は「ブレンディ」。その瞬間、会場からは大きな拍手が沸き起こった。

「濃い牛乳を出し続けるんだよ」

という校長の言葉を受け、ウシ子は感極まりながらお辞儀する。そんなラストシーンとともに「ブレンディ ミルク広がる挽きたてカフェオレ 特濃牛乳を100%使用しています」との商品PRのナレーションが流れ、2分半の作品は終了する。

(中略)

これを日本在住の外国人ライターが発見し、10月1日、ツイッターで「日本で気味の悪いCMが作られている。意味が分からない…」と批判的なコメントを添えて紹介した。このツイートなどがきっかけとなり、動画は大きな注目を集めることとなった。

ぼくもクリエーターの端くれなので、クリエーター目線で言わせていただければ、大変よく考えられた作品だと思います。もともとこのCMは「感動もの」というスタンスで発表されています。見方によっては確かに感動するでしょう。実際に、それで賞まで受けているCMであることは事実です。単純に主人公の努力が実を結んでハッピーになったという感動もそうでしょうが、ぼくはむしろ初めに見たとき、牛の立場に感情移入して感動しました。

人間に育てられている牛たちは、人間の都合によって見せ物にされたり(動物園)、闘わせられたり(闘牛)、ミルクを出し続けさせられたり、殺されて食われてしまったりします。もしそういう牛たちに意識があったら、ファームを巣立っていくとき、このCMの「卒牛式」のように、泣き叫んだり、怒りまくったり、喜んだりと、さまざまな思いを抱くだろうなあ・・・と想像し、焼き肉を食べていた箸が止まったことを覚えています。

このCMに対して、上記のような見方をしているときは、次のような見方は全くもってできませんでした。

「濃い牛乳を出し続けるんだよ」 女子高生を胸が大きい「乳牛」に見立てたAGFのCM動画に賛否

同ライターはどうやら、主人公の「胸」に関するシーンに不快感を抱いたようだ。主人公のウシ子は見るからに巨乳であり、回想シーンでは、胸を強調したようなシーンもみられた。

白いTシャツを着たウシ子が、「胸を張って」という母の言葉を思い出しながら、大きなおっぱいを上下に揺らしてランニングする姿がスローモーションで映し出されていた。

あるツイッターユーザーから「おっぱいが揺れるシーンは最悪」といった声が届くと、ライターは「僕も最初はかなりクリエイティブだなって思ってたんだけど、そのシーンに差し掛かった時は一体何が起きたのかと…」と見た時の衝撃を振り返った。

今回の騒動で、こういう指摘に触れ、再度動画サイトで見てみました。すると確かに、「何ていやらしいんだろう」と、同じような印象を持ちました。これは科学哲学でいうところのパラダイムシフトだなあと感じ、また変な感動をしてしまいました。(-_-;) なんのことやらよく分からないと思うので、下記の絵をご覧ください。

ジャストロウ図形

これは哲学者のヴィトゲンシュタインが著書『哲学探究』に掲載した絵です。左側に突き出した2本の棒のような部分を、「くちばし」 として見ればアヒルに見えます。しかし、それを「耳」として見れば、ウサギに見えるようになります。つまり、この絵を「アヒルだ」という見方をすればそう見えるし、「いや、ウサギだ」という見方をすればそう見えるということです。

クーンという哲学者が、こういう見方に相当するものをパラダイムと呼びました。パラダイムとは、一般的には思考の枠組みなどといわれます。もっとくだけた言い方をすれば、思い込みでしょうか。クーンの主張が面白いのは、パラダシフトということです。車のシフトレバーを切り替えると速度が断続的に(つまり連続ではない)変化するように、パラダイムも断続的に変化するというものです。

上の絵は、アヒルという見方をしているときには、決してウサギには見えません。また、ウサギという見方をしているときには、絶対にアヒルには見えません。見方を変えた瞬間に、見える様相も瞬時に変わるのです。見方は連続せず、断続的に変わるのです。

ちょっと小難しい話になってしまいましたが、「ブレンディ」のCMも同じようなものだと言いたいわけです。あのCMを「感動もの」という見方をしているときには、決して「いやらしい」とは思えません。また、「いやらしい」という見方をしているときには、絶対に感動しません。

上の絵が、アヒルかウサギか、どちらが正しいというわけでもないように、「ブレンディ」のCMも「感動もの」か「いやらしいもの」なのかは決められないのです。

ただ一つ言えることは、中途半端ということでしょうか。ウサギの「写真」を見たら、誰もがアヒルだと見ることはないのです。あんな中途半端な絵だから、どちらにも見えるのです。「ブレンディ」のCMも同様に中途半端だということです。むろん、中途半端が悪いとか、善いとか、そんなことも断言できません。

しいていえば、好き嫌いでしょうか。いろいろな見方ができることが好きなのか、明確に一つの見方しかできないことが好きなのか、好みの問題のようにも思います。ぼくは、いろんな見方ができるほうが好きですけど・・・。


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