科学に対する過小評価と過大評価


天の川科学哲学とは、科学の正しい理解を目的とした学問です。そのような学問ができてしまい、真剣に研究する学者がいるくらいですから、科学を正しく理解することは難しいものです。

ましてや、一般の人々が科学を真の意味で理解することは、至難の業に近いでしょう。ですから、科学はしばしば誤解されています。その誤解は、過小評価と過大評価の両極端に分かれます。

過小評価してしまう人々は、宗教家、信仰を持っている人、信仰まではいかないけれどもスピリチュアル系の思想を信じている人たちなどです。「科学でも解明できないことがある」というのが口癖です。科学で解明できなくても、自分たちの信じる教えでは説明できるというわけです。

過大評価してしまう人々は、上記と反対の人々、つまり神や霊界など自分が感じられない存在を信じない人々、宗教を否定する人々です。彼らにとっては科学的真理こそ絶対であって、科学で解明できないものはないと考えます。

科学哲学の立場で考えると、どちらの主張も正しくありません。

「科学でも解明できないことがある」という仮説は、絶対ではありません。仮に現在の科学では解明できていない現象があっても、将来の科学でも解明できないという「証明」はできません。例えば、現在では「霊現象」としてしか説明できないものも、100年後の科学では「物理現象」として説明しているかもしれません。

同様に「科学で解明できないものはない」という仮説も、やはり絶対ではありません。これまでの科学がさまざまな現象の仕組みを解明してきたことは事実ですが、将来の科学でも同じような解明が進むという「証明」はできません。例えば、今まで「物理現象」として説明できていたものが、100年後には決定的な反証が発見され、「霊現象」としてしか説明できなくなるかもしれません。

最も良い「科学の過大評価」の例が、進化論でしょう。「進化という仮説」で生物の歴史をもっともらしく綴っていますが、「進化という仮説」が証明されているわけではありません。そもそも「進化という現象」を見た人がいません。単に「進化という仮説」をもって生物の歴史を説明しているに過ぎません。

今後、「進化に代わる仮説」をもって、進化論よりも生物の歴史をもっともらしく説明できるようになるかもしれません。「進化という現象」を見た人がいない以上、もっと慎重に仮説を仮説として取り扱うべきです。

いずれにせよ科学は、自然界のありさまを徐々に解明してきました。科学哲学者が最も関心を持って研究をしているのは、この点です。すなわち「なぜ科学は、自然界のありさまを解明できるのか?」という点です。

「なぜ科学は、自然界のありさまを解明できるのか?」という命題を、科学を使って説明できてこそ、実は真なる環境のコントロールができるのです。


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