障害者大量殺傷犯のゆがんだ正義感・使命感は、果たして彼特有のものか?


雲行き
相模原市の障害者施設に刃物を持った者が侵入し、19人死亡、24人重軽傷という凄惨な事件が起きました。この犯人は、衆議院議長公邸に次のような手紙を渡していたといいます。

植松容疑者の衆議院議長公邸宛て手紙の全文 障害者抹殺作戦を犯行予告

●1枚目
(中略)
障害者は人間としてではなく、動物として生活を過しております。(中略)私の目標は重複障害者の方が家庭内での生活、及び社会的活動が極めて困難な場合、保護者の同意を得て安楽死できる世界です。(中略)障害者は不幸を作ることしかできません。
(中略)
障害者を殺すことは不幸を最大まで抑えることができます。

●2枚目
私は大量殺人をしたいという狂気に満ちた発想で今回の作戦を、提案を上げる訳ではありません。全人類が心の隅に隠した想いを声に出し、実行する決意を持って行動しました。
(中略)
今回の革命で日本国が生まれ変わればと考えております。

ただ単に誰かに恨みがあるといった動機ではなく、一種の正義感・使命感を持って論理的に考えていることが分かります。もちろん、それはゆがんだ正義感・使命感です。

彼は自分がゆがんでいることに気付かず、そのゆがんだ思想が正常だと考えるから、かえって外界がゆがんで見えてしまうのです。ゆがんだレンズの眼鏡で、外の景色を見ているようなものです。

怖いのは、論理的思考ができる点です。障害者を殺すという目的を達成するために、幾つもの凶器を準備し(多分、包丁1本ではすぐに刃こぼれして使えなくなることも知っていたのでしょう)、最も効率的に殺害できる時間帯を設定して実行しています(1分間に1人を襲うという迅速さです)。そして、目的を達成したら警察に直行して自首をします。

ゆがんだ正義感・使命感を持った者が、その目的を達成するために論理的思考を用いて計画・実行をされると、ここまで凄惨なことを平気で行えるということを、今回まざまざと見せつけられました。こういう犯罪者が増えてきたときに、社会はどう対処したらいいのか、すぐには良い案が浮かびません。

もっと恐ろしいことは、ゆがんだ正義感・使命感はこの犯人特有なものではないということです。もともと人間は正義感・使命感が備わっています。それが健全に真っすぐ育っていくか、彼のようにゆがんでしまうかは、もちろん本人のパーソナリティーもありますが、もう一つは得られる情報(広くは社会情勢)にも影響されると思うからです。

植物でいえば、水や肥料の成分が汚れていれば、健全に育ちません。人間の心の場合、水や肥料に当たるのが情報です。幼少期には親などの家族からの情報が最も影響力は大きいでしょう。しかし、物心がついていくに連れて、社会から入ってくるさまざまな情報も、大きく関わってきます。そこで不健全な情報ばかりを吸収してしまうと、もともと持っている正義感・使命感に加えて、高等教育で培われて論理的思考ができてしまうが故に、実に恐ろしい人格になってしまうと思います。

かつて、オウム真理教が多くのテロ行為を行いました。これも「人類救済」という目的に向かって、ゆがんだ正義感・使命感と論理的思考によって引き起こされたものです。現在、世界中で起きているイスラム国を中心としたテロもそうです。否、そもそも人類歴史は、大量殺戮の歴史でした。博愛精神を説くキリスト教だって、十字軍の遠征で多くの人々(女性や子どもも含めて!)を虐殺しました。

そう考えると、ゆがんだ正義感・使命感は今回の犯人特有のものではなく、人類が「さが」として持っているものだといえます。こういったことを解決することは、一朝一夕にはいかないでしょうが、努力はしていきたいものです。


コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

*