創造論裁判が明らかにした宗教と科学の線引き問題



1999年から始まったID(知的設計者)仮説論争よりも早く、アメリカでは創造論と進化論のバトルが起きていました。それがアーカンソー州法に対する創造論裁判です。

1981年、アーカンソー州議会で「創造論と進化論のバランスのとれた取り扱いについての法令」が可決され、知事の許可まで下りました。この法令は、「公立学校では創造論と進化論を、授業時間・図書・教材などの点で平等な分量にするべきである」というものです。

この州法では、創造論を次のように定義しています。

(1)宇宙、エネルギー、生命が、無から創造された。
(2)単一の有機体から全種類の生物が誕生することは、突然変異と自然選択では不可能である。
(3)最初に創造された植物や動物からの、固定された限界の範囲内でのみ、生物は変化してきた。
(4)人間と類人猿の祖先は別である。
(5)世界規模の大洪水などによる天変地異によって、今の地形が誕生した。
(6)地球と全種類の生物は、比較的最近に発生した。

「進化論を教えるならば、最低限、上記のような内容も公立学校で教えなさい」という法令でした。

ところが、この法令の成立後、「宗教的信念の押し付けである」という提訴が、さまざまな団体の連名でなされました。原告には、教師の団体の他に、なぜかキリスト教諸派が多く名を連ねました。学校で創造論が教えられるのだから、キリスト教諸派は歓迎するべきではないかと思いきや、そうではなかったのです。

彼らの主張は、「創造論は宗教的信念であり、科学ではない」というものです。こう主張するのは、宗教団体だから当然なのかもしれません。俗っぽく言えば、「宗教上の教えなんだから、学校で教えてくれるな。俺たちの仕事がなくなるじゃないか」ということかもしれませんね。

この裁判の争点は、「創造論は学校で教えるべき科学的知見か」ということです。キリスト教諸派が主張するように、創造論が宗教的信念なのであれば、「その宗教を信じる人たちの主観でのみ成り立つもの」ですから、学校で教えるべき「客観的な科学」とは言えないでしょう。

争点は、次の3点に集約されました。まず、州法に反対する原告側の主張は、こうです。

(A)進化論は反証可能な仮説であるが、創造論はそうではない。
(B)さまざまな種が進化によって生じたということは、生物学者の間で一致した見解である。
(C)創造論は、創造者無しには意味をなさない。創造論がキリスト教の神学を前提としていることは明らかである。

これに対する州法を弁護する側の反論は、下記のとおり。

(A’)創造論は反証不可能な仮説であるが、進化論も反証不可能である。
(B’)進化論の正統性については、現在でも生物学者の間で論争がある。
(C’)創造論は神に一言も触れておらず、宗教ではない。

こんな争点について、科学者でもないオヴァートン判事が判断を下せるわけがありませんでした。そこで科学哲学者のマイケル・ルースが呼びだされ、証言台に立ちました。ルースは、当時の科学哲学界での正論とされていた「科学の必要条件」について、次の5つをあげました。

(a)自然法則を探求していること。
(b)探求した自然法則によって、経験的な世界の説明をしていること。
(c)経験的な証拠と比較され、テストされていること。
(d)反証不可能でないこと。
(e)理論は一時的なものであり、理論に反する証拠があがってきた場合には、理論を変える余地があること。

オヴァートン判事は、「科学がこれら条件を備えていなければならないのであれば、創造論は科学ではない」として、1982年にアーカンソー州法を廃する判決を下しました。

確かに創造論は(ID仮説も)、上の5条件を満たしていません。

創造論から「ニュートンの法則」や「アインシュタインの相対性理論」のような自然法則が探求された経緯はありませんので、(a)から(c)は満たしていません。

弁護側自身も認めているように、創造論は反証不可能な仮説なので、(d)も満たしていません。

(e)を認めてしまったら、「もし創造に反する証拠が出てきたときに『創造はなかった』と認める」ということになり、そもそも創造論を主張する意味がなくなります。

以上の判決が、宗教と科学の線引き問題には必ず登場します。現在は、もっと多くの「科学の必要条件」が科学哲学者からあげられていますが、基本はこの5つです。

私の個人的な見解では、創造論とかID仮説とか形は変えていますが、とにかく「神が宇宙を創造した」という宗教的信念を「科学」という狭い枠組みに押し込もうという努力は、そろそろ止めにしてはいかがと思うのです。「科学」と認められれば現代人は無批判に信じてくれる・・・という淡い期待から、宗教臭くないように語るのですが、科学もそれほど人々から信頼されているわけでもありません。

宗教は宗教らしく、堂々と信じる世界を述べ伝える。それが一番だと思います。宗教が、科学という虎の威を借るキツネにだけはなってほしくありません。


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