現代は、まさに『下山の思想』が必要なのかもしれません


下山アベノミクスといわれて久しいのですが、ぼくの周りでは景気が良くなっているという実感はありません。「仕事なく、うっぷんを…」東北道に“投石”46歳男などというニュースに触れると、犯罪に対する怒りもさることながら、なんともいえない物悲しさも感じます。少子化も止まらないようですし、日本の未来に対してあまり希望的には感じないというのは、ぼくだけでしょうか?

景気が回復せず、少子高齢化が進めば、年金などの社会保障へのしわ寄せは避けられません。ぼくが年金をもらえるまでには、まだ15年くらいあります。そのときはもう、大した額は支給されないかもしれませんね。でも、ない袖は振れませんから、それはそれで致し方ないと諦めるしかないでしょう。

もちろん、アベノミクスが功を奏して景気が回復し、これから家庭を持つ夫婦が3人以上の子どもを生んでいくようになれば、上記の問題も解決できるかもしれません。しかし、1960年代、70年代の高度経済成長のようにはいかないでしょう。なぜなら、そのころに建てた建造物が軒並み老朽化しており、それを改修・改築していくだけで膨大な費用が必要だからです。

何もない所に建てていくことよりも、今あるものを維持・管理していくことや、解体して新たに建て替えるほうが、何倍もの労力と費用が必要になります。したがって、建造物の老朽化対策も遅々として進まないでしょう。街中の至る所が危険地帯になってしまうこともあり得ます。

このように考えていくと、なかなか将来に希望を見いだすということも難しいように感じます。しかし、冷静に事実だけを客観的に見れば、かつてのようなイケイケ・ドンドンの成長社会を望むのは無理だということです。そうであるならば、事実をしっかりと認めて、言葉は少し変ですが「積極的な諦め」といった姿勢も必要だと思うのです。

五木寛之さんのエッセイに『下山の思想』というものがあります。今の日本の状況を登山にたとれば、既に登頂を終えて、下山している途中だととらえたほうがいいという考え方を述べています。

私たちの再生の目標は、どこにあるのか。何をイメージして復興するのか。それは山頂ではない、という気がする。私たちはふたたび世界の経済大国という頂上をめざすのではなく、実り多い成熟した下山をこそ思い描くべきではないのか。(中略)戦後、私たちは敗戦の焼跡の中から、営々とした頂上をめざして登り続けた。そして幸運の風にも恵まれ、見事に登頂をはたした。頂上をきわめたあとには、下山しなければならない。それが登山というものなのだ。(P32~33)

登山のときと、下山では、姿勢が違う。気持ちも違う。めざすのは山頂ではなくて、スタート地点である。安全に、そして優雅に、出発点に戻り、いつかふたたび次の山頂をめざす。(中略)「下山」という表現に顔をしかめる人もいることだろう。それをマイナス思考として否定する向きも少なくあるまい。しかし、私たちは自分がいまどこにいるのか、行き先はどこなのかを、冷静につかんでおく必要があるのではないか。(P36~37)

うなずける内容です。日本は一度、頂上にたどり着いたと思います。ならば、いったん下山をしなければならないでしょう。今、下山の途中なのに、登りの要領で加速したら、坂道を転がり落ちてしまうかもしれません。下手したら死んでしまいます。

国家のかじ取りをしている政治家の皆さんには、ぜひ客観的な判断をしていただきいと思います。むろん、これは五木さんが言うようにマイナス思考ではありません。ぼくが好きな「科学的思考」です。感情論で動くのではなく、現実のデータを客観的に分析し、最善の方法論を取っていただいきたいと思います。

まあ、普通に客観的に冷静に見たら、日本は今、上り坂ではなく、下り坂だと思いますけどね。


“現代は、まさに『下山の思想』が必要なのかもしれません” への1件の返信

  1. 下り坂ではない。下り坂と錯覚しているだけだ。

    上り坂で上がり調子なのに、一部の人間の負担を軽くするために、一部の人間の負担が重くなっている。

    また、過去上り坂のときに、世代の人達が美味しい食料を食べきってしまったので、今の世代の人達が辛くなってきている。

    現在進行形で技術は発達し、インフラは整って生産性は確実に向上している。
    以前よりは緩やかだが、上り坂である事に変わりはない。

    しかし、その上り調子を上回る過去のツケを払って、一部の人間が負担して、足の引っ張り合いをしているから、下り坂と感じてしまう。

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