DNA至上主義の終焉



最近、科学の専門家ではない人が書いた進化論に関する原稿をチェックしたところ、DNAに関する理解があまりにも稚拙であることに驚きました。一般的にはその程度の理解なのかもしれませんが、「二酸化炭素による地球温暖化仮説の誤解」に匹敵する、メディア・リテラシーへの危機感を禁じ得ませんでした。そこで今日はDNAについて記してみたいと思います。

そもそもDNAとは、何でもかんでも子孫に伝える代物ではありません。「彼には政治家のDNAがある」とか、「芸術家のDNAが伝わっている」とか、「この会社には創業者のDNAが受け継がれている」といった用語の使い方は、完全な誤りです。

DNAとは「デオキシリボ核酸」の略称で、細胞核の中にある極めて細長い物質です。一般的には「DNA=遺伝子」と理解されていますが、これは正しくありません。遺伝子は、長大なDNAの中の、ほんの一部分を占めているに過ぎません。

人間においては、遺伝子の部分は全DNAの2%ほどしかありません。では、DNAの残り98%は何なのかというと、今のところ「意味のない無駄な部分」と考えられています。

また、一般的には「DNA=生物の設計図」と理解されていますが、これもまったく正しくありません。

「遺伝子=生物の設計図、だったら正解じゃないか?」

そう思われるかもしれませんが、これも正しくありません。正しくは「遺伝子=たんぱく質の設計図の一部」ということです。一部に過ぎないのです。

いずれにせよ遺伝子は、たんぱく質に関する情報を伝えているだけであり、政治家や芸術家にふさわしい「素質」とか、会社の「伝統」といったものまで伝える代物ではありません。

生物の体はたんぱく質からできていますので、遺伝子がたんぱく質の設計図としての役割を一部にせよ担っているのなら、生物の設計図と言ってもよいのではないかと考えてしまいがちです。しかし、それは誤りです。なぜなら、たんぱく質がどのように組み合わさって体を形作るのか、全く分かっていないからです。

例えば、たんぱく質がどのようにして、目、鼻、耳、口、手、足などの形を作っていくのか、まったく分かっていません。個々人によって顔の各部位のバランスが微妙に異なるわけ(美男美女とそうでない人ができるわけ)も、指紋はどうやってできるのかということも、全然解明されていません。単に、体の「最小単位の部品」であるたんぱく質が作られる仕組みしか分かっていないのです。部品の組み立て方は、さっぱり分かっていないのです。

しかも、「設計図の一部」と評したように、たんぱく質はDNAの中の遺伝子だけでは決して作られません。むしろRNA(リボ核酸)という分子の方が、DNAよりも大活躍しているのです。RNAも、DNAと同じように細長い物質です。RNAにはさまざまな種類があります。

例えば、遺伝子の情報をコピーするmRNAや、アミノ酸を探して運んでくるtRNAがあります。mRNAが持ってきた情報に基づいて、tRNAが運んできたアミノ酸が組み合わされます。たんぱく質とは、いろいろな種類のアミノ酸が組み合わさってできます。つまり、組立役のmRNAやtRNAがなければ、たんぱく質は誕生しないのです。

DNAは非常に安定した分子構造をしておりますので、確かに遺伝情報を蓄えておくには適しています。かたやRNAは非常に動的であり、データ保存には適していません。しかし、実際にアミノ酸を探し、運んで、組み立てているのは、RNAの方です。

ですから、最近の分子生物学においては、むしろDNAよりもRNAの方が重要視されているほどです。「DNAはRNAのバックアップコピーである」と言い切る学者までいます。RNAがたんぱく質を組み立てる際に必要な情報を、安定した分子構造を持つDNAにバックアップとして保存しているというわけです。

DNAがたんぱく質を組み立てる主体的な立場にいると考えられていたのは、前時代の分子生物学においてです。最近では、RNAの方が主体的な立場にあるという見方が有力です。DNAは単なるバックアップ保存場所という立場だと考えられています。何でもかんでもDNAが決めているという「DNA至上主義」は、すでに終焉を迎えています。

では、「DNAとRNAがあればたんぱく質ができるのか」というと、これも正しくありません。DNAとRNAが働いてできるものは、正確にはたんぱく質ではなく「アミノ酸が連なった長い鎖状の分子」です。これは「たんぱく質の一歩手前」の分子です。

この鎖状の分子が適切に折れ曲がって立体構造を構築したものが、たんぱく質分子になるのです。使われるアミノ酸の種類、アミノ酸がつながる順序、鎖状の分子の折れ曲がり方・・・。これらの条件によって、たんぱく質にもさまざまな種類が生まれます。

鎖状の分子を折り曲げて立体構造を作り上げるためには、シャペロンという物質が働いています。シャペロンがないと、アミノ酸の鎖は最終的に折れ曲がることができず、たんぱく質として完成しません。DNAとRNAだけでも、たんぱく質はできないのです。

さらに重要なことは、DNAもRNAもシャペロンも、「生きている細胞」の中でしか働けないという点です。DNA、RNA、シャペロンを、実験室のシャーレに取り出しても全く機能しないのです。生きている細胞の中でしか、彼らは能力を発揮しないのです。

また、もっと驚くべきことは、生きている細胞の中においても、その細胞が置かれた環境によっては、DNAもRNAもシャペロンも違った働きをするということです。

例えば、ワニの卵は高温にさらされると必ずオスになり、低温では必ずメスになります。ショウジョウバエの卵が生まれてから2.5~3.5時間の間にエーテルの蒸気にさらすと、羽が4枚になります(通常は2枚)。遺伝子からの情報だけではなく、環境からの情報もたんぱく質を作るうえで大きなファクターとなっているのです。

このように、生命体というものは実に複雑にできています。まさに複雑系です。単純に「DNAによって全てが決まっている」などと考えることは、やめましょう。


“DNA至上主義の終焉” への2件の返信

  1. そもそもDNAは生命の設計図ではなくただのパラメータシートです。
    細胞を持つ生物はベースになる細胞の分裂でのみで維持進化可能です。人の細胞は古代生物からの細胞分裂の結果です。
    生命はDNAを後世に残すことを目的としているのではなく、ベースになる細胞核を絶やさないようにすることのみを目的とし、その為に多様化戦略を取りDNAを作ったと考えられます。重要なのはDNAではなく細胞核です。
    コンピュータに例えれば、DNAはUSBメモリのようなもので、細胞核はCPUです。いくらUSBメモリのデータを解析してもCPUの構造は理解できません。細胞核のことはまだ何もわかっていません。

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