理性の限界を知らずに原発再稼働をして、後世から合理的な愚か者と言われないようにしたいです


原発廃棄物と地球"
原子力規制委員会が、志賀原発1号機の直下に活断層があることを指摘したことで、廃炉を迫らせる可能性が出てきました。

志賀原発1号機「活断層と解釈が合理的」規制委に報告書

原子力規制委員会は27日、北陸電力志賀(しか)原発1号機(石川県)の原子炉建屋直下の断層について、「活断層と解釈するのが合理的」とした有識者会合の報告を受理した。規制委は「重要な知見」として扱う。新規制基準は活断層の上に重要施設の設置を認めていない。北陸電は活断層でないと主張しているが、結論を覆せなければ1号機は廃炉を迫られる。
(中略)
 北陸電は「事実誤認がある」などとして否定しており、すでに再稼働に向けた審査を申請している2号機の審査の場で争う考え。1号機も申請をめざすという。

北陸電力とすれば再稼働したいでしょうから、事実誤認、すなわち「活断層はない」と主張して争うのは当然と言えます。そもそも、地面の下のことは明確に分からないので、こういう論争が起きるわけです。そういう意味では、目に見えない神を論じる神学論争みたいで、明確な答えが出るとも思えないです。

原子力規制委員会も、活断層の専門家である科学者が参加しているという立場としては、「合理的」という言葉を使わざるを得ないでしょう。しかし、北陸電力側もきっと「活断層はないと判断するのが合理的」というはずです。どっちも合理的な説明をしてくるので、その主張のどちらが本当に合理的なのかは、「合理的に判断できない」はずです。

ちょっと哲学的過ぎましたか? 要は矛盾という言葉の語源となった話と同じです。何物でも絶対に突き通すという矛と、何物で絶対に突き通せないという盾があるとすると、この矛で盾を突くとどうなるかという話です。訳が分かりません。こういうことを「矛盾している」と言います。

原子力規制委員会と北陸電力が、正反対のことを、どちらも合理的に説明できたとすると、やはり矛盾するわけです。

そもそも、合理的(理性的)なことだけが判断基準ではないということを知らねばなりません。こういうことは、既にいろんな分野の研究成果で明らかになっています。大きくは、数学における「ゲーデルの不完全性定理」、物理学における「ハイゼンベルグの不確定性原理」、社会科学における「アロウの不可能性定理」という3つの有名な理論があります。それぞれを詳細に説明したいところですが、そんなことしていたら本が何冊も書けてしまいます。ごく簡単に説明します。

ゲーデルの不完全性定理とは、「数学に矛盾がないとするなら、数学を使ってそのことを証明できない」というものです。ぼくらは数学という論理体系には矛盾がないと知っていても、そのことは決して数学を使って証明できないというものです。つまり、数学にも限界があるということです。

ハイゼンベルグの不確定性原理は、「物体の位置と速度は、同時に正確には測ることができず、ある確率の範囲内でしが測ることができない」というものです。ぼくらには、物理現象を正確に予測できず、ある確率の範囲内でしか予測できないというものです。つまり、物理学(科学)にも限界があるということです。

アロウの不可能性定理とは、「個人の望みと社会の望みの両方を完全に満たす、完全な民主主義制度は実現できない」というものです。独裁国家ではなく民主主義国家であっても、どこかで不平等や独裁的なことが起きてしまうというものです。つまり、民主主義にも限界があるということです。

これら3つの理論は、要は理性の限界を示しています。完璧に合理的な判断というものは不可能なのだということです。ですから、アマルティア・センというノーベル経済学賞を受賞した学者は、合理的なことだけを判断基準にして動く人を『合理的な愚か者』と呼んでいます。

そもそも合理的な判断というものは、その判断をする者の利益、つまり利己的な思いが内包されています。今回の志賀原発の事案のように、原子力規制委員会側は「この原発は危険だから廃炉にしたい」という思いを、合理的に説明します。北陸電力側は「この原発をなんとしても再稼働したい」という思いを、合理的に説明します。そして、その合理的判断で争っているわけです。

これがセンの言う『合理的な愚か者』です。センはこの本で、人間は本来、利己的な思いが根付いた合理的な判断だけではなく、時には利他的な思いを行動の指針にすると言っています。それなのに、合理的な判断だけで物事を考えていこうとすることは愚かだというのです。

もちろん、利己的な思いが根付いていない合理的判断があればいいですが、残念ながらそういうものはほとんどないでしょう。なぜなら、人は何か自分の利益になることをしたいときにこそ、なんやかんやと理屈を述べて、合理的だと主張するからです。

片や、利他的な思いというものは、そんな理屈を述べません。例えば、川で溺れている子を助けるために飛び込む利他的な行動は、合理的な判断によってなされてはいないからです。いったん合理的に判断しだしたら、「自分も溺れてしまう可能性があるから危険だ」となって、川に飛び込みません。

むろんセンは、聖人君子のように、常に利他的な思いで動けと言っているわけではありません。合理的(利己的)な思いと、利他的な思いをバランスよく使っていくことが肝要なのです。

では、志賀原発の問題はどうでしょうか。合理的判断では禍根を残すと思います。福島原発の事故で、既に放射性物質の恐ろしさを実感した日本です。その後も地震や火山噴火がたくさん起きています。日本はそのような自然災害が多い国であることも再認識しました。そんな災害多発地帯に、あえて何十基も原発を建てるなんて、合理的に考えなくても(例えば小学生に聞いても)危ないよね、となるでしょう。理屈なんか要りません。

今の子どもたちが大人になったときに、今以上に放射性物質で暮らす場所が制限されていたら、きっとぼくらを『合理的な愚か者』と呼んでいるでしょう。後世の人たちのことを考えれば、志賀原発に限らず全ての原発は廃炉にしていったほうがいいと、ぼくは思います。


“理性の限界を知らずに原発再稼働をして、後世から合理的な愚か者と言われないようにしたいです” への1件の返信

  1. ピンバック: 再生可能エネルギーなんて欺瞞です – ∂世界/∂x = 感動

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