もう20年以上、ぼくは床屋に行かず、妻に髪を切ってもらっています。妻は美容師だったわけではありませんが、手先が器用なので、ぼくや3人の子どもたちの散髪をしています。
日曜日、妻に散髪をしてもらっていると、妻がしみじみと言いました。
「あなた、はげたわよねえ~」
ぼくに「はげ」と言うことは、わが家ではタブーではありません。(^_^;)
毎回ぼくの髪を切っていますから、その変化がよく分かるのでしょう。ぼくは頭の上に目が付いていないので、分かりません。気にして鏡を頭上に掲げて見てもいないので、いつからどれくらい薄くなったか分かりません。髪があるに越したことはありませんが、髪がなくても別に困りませんので、成り行きにまかせています。
妻の言葉で「はげ頭論法」を思い出しました。
はげ頭論法とは、科学哲学の世界で「宗教と科学の境界線問題」を論ずるときに出てくるものです。実は、哲学的には宗教と科学との間に線を引いて、「ここまでが宗教、ここからが科学」と断言することは極めて困難なのです。その困難なさまをたとえたのが、はげ頭論法です。
次の2つの前提を考えてみてください。
(前提1)はげていない人から髪を1本抜いても、はげにはならない。
(前提2)髪が10万本ある人は、はげではない。
どちらの前提も、直感的には「正しい」と判断できます。前提1のように、たかだか1本の髪を抜いたところで、はげになるわけではありません。前提2の「10万本」は成人の髪の平均本数です。平均値本数の髪を持っている人は、はげとは言えません。
このように、上記2つの前提は誰もが認めるところです。しかし、これら2つの前提を認めると、「髪が0本でも、はげではない」という結論が導かれるのです。
「髪が10万本ある人は、はげではない(前提2)」のですから、「はげではない(髪が10万本ある人)から1本抜いても、はげにはならない(前提1)」ことになります。
つまり「髪が99,999本(10万本-1本)ある人は、はげではない」ということになります。これを再び前提2とします。
すると、「髪が99,999本ある人は、はげではない(前提2)」のですから、「髪が99,999本ある人から1本抜いても、はげにはならない(前提1)」ことになります。
つまり「髪が99,998本(99,999本-1本)ある人は、はげではない」ということになります。これを再び前提2とします・・・と、ずっと続けていけば、最後には「髪が0本でも、はげではない」という結論になるというわけです。
どこかで「はげ」と「はげではない」という所の境界線を引きたいのですが、それは困難だということです。しかし、実際には明確な線引きがないのに、ぼくらは「あの人は、はげ」、「この人は、はげていない」と言って(思って)います。
「宗教と科学の境界線問題」も、同じ構造となっています。
反証可能性も線引きにはなっていません。反証可能性をもっていれば「科学的である」ということであって、「科学そのもの」にはなり得ません。反証可能性は、「科学そのもの」の極めて特徴的な性質ではありますが、「反証可能性=科学」というわけではありません。
科学哲学者は、どこかで「宗教」と「科学」の境界線を引きたいのですが、それは困難だということです。しかし、実際には明確な線引きがないのに、ぼくらは「あれは宗教」、「これは科学」と言って(思って)います。
妻がしみじみと「あなた、はげたわよねえ~」などと言うものですから、
「いやいや、『髪が10万本ある人は、はげではない』し、『髪が10万本ある人から1本抜いても、はげにはならない』から、『髪が99,999本ある人も、はげではない』し、『髪が99,999本ある人から1本抜いても、はげにはならない』んだ。これを突き詰めていくと、『髪が0本でも、はげにならない』んだ・・・」
と、ついつい話してしまいました。
おかげで頭が混乱してしまった妻は、私の髪を切り過ぎてしまいました。
「あらやだ、変なこというからよ」
「ええっ。髪の毛が薄いんだから、気を付けてくれよぉ・・・」
「まあ、いいじゃん。0本でも、はげにならないんでしょ?」
「あ、うう・・・」